61)「想定外」では許されない
- 2011年3月30日
- 社会・雑学
今回の大震災により、政府は、福島第1原発・第2原発について、原子力災害緊急事態を宣言した。今後も、まったく予断を許さない状況であるが、1日も早い安全宣言を願うばかりである。
今回の大地震は、マグニチュード9.0という日本史上最大の巨大地震であり、これほどまでの津波の猛威というのは、われわれ素人には「予想外」だったとしか言いようがない。
そして、多くの専門家や原発関係者までもが、今回の震災を「想定外」だと言い切った。
だが、騙されてはいけない。「予想外」と「想定外」とは全く違う。
専門家は、今回のような巨大地震や大津波が来る「可能性」は十分に「予想」していたのだが、原発建設の際には敢えて「想定」しなかった、というのが真実だ。
確かに、マグニチュード9クラスの地震というのは、日本では初めてだが、太平洋の周りでは過去60年に4回も起きており、今回の震災を含めれば60年に5回も起きている地震である。つまり、どこで起きるかはともかくとして、プレートの境界付近でマグニチュード9.5程度の大地震が起きることは、専門家であれば十分に「予想」できたことなのだ。
ちなみに、想定とは、辞書によれば、「ある条件や状況を仮に設定すること」である。つまり、そこには、純粋な「科学的知見」ではない、不純な「政策的意図」が入り込んでくる可能性が多分にあるのだ。
そして、なぜ、原発建設の際にそのような「想定」をしなかったのかと言えば、コストを低く抑えたいから、という我々の「予想内」とも言えるふざけた理由からだ。
もちろん、電力会社も営利法人だから、ビジネス上の採算性を考慮するのは当たり前のことである。そのことは否定しない。だが、原発だけは別だ。
原発は、政府が執拗に言い続けてきたように「絶対に安全」でなくてはならないのだ。
仮に、日本の電力供給が原子力に今後も依存せざるを得ないのなら、そして、予想できるあらゆる自然災害に耐え得る構造にするためには巨額の資金が必要とされるなら、国民的議論の末に公金投入や電気料金の大幅値上げに踏み切らざるを得ない。
原発と共存していくなら、それくらいの覚悟は国民も持たねばならない。
原発は、万に一つの確率でも事故を起こしてはならないのであり、今回の原発事故は、東京電力の「甘い想定」が招いた「人災」と言わざるを得ない。
事故を予防するコストと事故の後始末をするコストを比較すれば、前者が圧倒的に安いということは経済学の常識である。
今回の事故で、東京電力は多額の補償金を負担せねばならず、会社そのものが破綻する可能性も指摘されている。
自然科学のプロが経済学の常識を知らなかったとは思えないが、目先のコスト抑制を優先して、後々の経営破綻にも繋がるような甚大なコスト負担を無視した結果である。
原発事故は、地域住民の健康・生命を脅かす重大な犯罪とも言える。
東京電力という会社が消滅して、放射能汚染だけが残った、なんていう話は絶対に聞きたくない。
今回の事故で、政府が執拗に言い続けてきた「原発は絶対に安全」という言葉の「軽々しさ」が改めて浮き彫りになった。
そして、日本の電力供給の「危うさ」もまた痛感した。
私の住んでいる東海地区は、中部電力から電気をもらっている。東日本が節電で頑張っている状況なのに、西日本では節電は声高に言われない。
なぜ、中部電力の電気を東日本に送れないのか、素人ながらに不思議であったが、調べてみると、なんと東日本と西日本とで「周波数」が違うらしいではないか。
周波数が違うから送電できない……って、なんというバカバカしい話なんだろうか。
1つの国で地域によって周波数が違うのは日本くらいだそうだ。
この国の危機管理の甘さは絶望的とも言える。
とにもかくにも、今回の原発事故は、福島県民に対する犯罪とも言える人災である。
そもそも、福島県民にとって、この原発の存在は何だったのだろうか。
確かに、原発利権というものは存在したろうし、経済的な恩恵は受けてきたのかも知れないが、それは、原発が「絶対安全」であるというのが大前提である。
如何に多額の経済的恩恵を受けようとも、現実に生活が脅かされたのでは、たまったものではない。
言うまでもなく、福島の原発は、「東京電力」の所有物である。つまり、そこで発電された電力は関東の人たちに供給されるのであり、福島県民には何の関係もない。福島県民に電力を供給しているのは東北電力だからだ。
自分たちへの電力供給とは無関係の原発を抱え込み、将来の健康と生命のリスクだけを負わされた福島県民……。あまりにも、むごい話だ。