12)無実と無罪
- 2009年7月21日
- 法律・政治
先日、テレビを見ていたら、あるコメンテーターが「日本人は、無実と無罪の違いがよく分かっていない。」という発言をしていた。私も、全くその通りだと思う。
無実は文字通り、真実として犯人では無いということだが、無罪というのは、国家権力が有罪の立証に失敗したということ、つまり、単に有罪ではない(罰することが出来ない)ということに過ぎず、「無実ではないが無罪である」ということは多分にあり得るのだ。
ついつい、日本人は、<無罪=無実>と思ってしまうから、「素人の裁判員が真相究明など出来るのだろうか」などという余計な心配までしてしまうのだ。
例えば、裁判員に選ばれたとして、「証拠上は、有罪とするには無理があるなあ。でも、本当はこの人が真犯人なんじゃないか。間違って無罪と判断してしまうと、真犯人を取り逃がしてしまうことになるぞ。被害者のことを考えると、それは絶対に許されないはずだ。やはり、ここは有罪にしておくべきか。」などという悩みは、全く余計な悩みであるばかりか、刑事裁判の理念からは大きく乖離した完全に「有害な悩み」なのだ。
刑事裁判というのは、「出ている証拠だけから有罪と断定できるかどうか」ということ「だけ」が問われているのだから、真相究明の責任を裁判員が負う必要は全くないのである。「真犯人を取り逃がしてもよいから、絶対に冤罪被害者は出してはならない。」という刑事裁判の理念を日本の国民大多数が共有するのは、まだまだ遠い将来のことなのかも知れないが…。
ところで、先日来、話題になっている「足利事件」は、全ての司法関係者に大いなる反省を促す契機となった。何しろ、DNAが犯人のものと一致しないということが科学的に証明されたのだから、それこそ、完全な「無実」だったわけだ。
当時の捜査及び司法関係者だけでなく、その後、なかなか再審の扉を開けようとしなかった司法の責任は甚大である。17年間もの長期に渡って、「無実」の人を収監してしまった人権侵害は無論のこと、再審を開かない間に公訴時効(当時は15年)が完成してしまい、何処かに潜んでいるであろう真犯人を見つけ出すことすら出来なくなってしまったのだから…。
私見だが、日本は冤罪が発生し易い国である。
何故かと言えば、日本人は、(1)捜査機関(警察・検察)は公正中立なものであると信じ込み、(2)無実の人が虚偽の自白をすることなど絶対にあり得ないと思い込んでいるからだ。
まず、(1)の点。捜査機関は公正中立なのだから、犯人が見つかろうが見つかるまいが利害関係は全く無い、だから、起訴された以上は犯人に違いない、と国民は信じ込んでしまっている。
だが、捜査機関にも、捜査機関特有の利害関係があるのだ。何と言っても、とにかく早く捜査を終結させたいと思っている。迷宮入りとなるのは国家の威信に懸けて絶対に避けたいところだし、公訴時効ギリギリまで捜査を継続していたのでは、余計な人手も予算も嵩んでしまう。場合によっては、担当責任者の出世にも影響が生じる。だから、特定の被告人に対しては何の感情も無いだろうが、真犯人が誰であれ、「犯人を検挙して起訴する」ということ自体に無上の価値を見出してしまう傾向があるのだ。例の「足利事件」でも捜査機関の「焦り」が冤罪を招いた要因と指摘されている。そして、よく言われるように、時としては、政治的理由(国策)から無理な捜査を展開することさえあるのだ。
日本は、欧米のような「市民革命」を経験していないから、国家に対する理由無き信頼感(盲信)があるようだ。
かつて、官房長官時代の福田康夫元首相は、個人情報保護法に公務員への罰則がないことへの批判に対し、「行政機関は、違法行為をしないことになっている。」と明言したことがあるが、法律のあらゆる所に公務員は公正中立(のはず)であるということを大前提とした条文が数多く登場する。
それに、日本国憲法によって、日本は民主主義国家(国民主権国家)になったはずなのだが、今でも、国家が上で国民が下という感覚が日本全国に蔓延している。「お上」「上申書」「判決を下す」「下命」(国民に行為を強制する行政行為)などという表現が今の時代にも当然のごとく使用されているのは、その典型例だ。最近よく話題に上る「天下り」に至っては、何様のつもりだと笑っちゃうくらいの表現だ。本来の意味は、「神がこの世に降りること」(降臨)だそうだ…。
日本が市民革命を経験していないということは、国家権力に対する不信感・反発が生じていなかったということだろう。それはそれで、大いに喜ばしく、むしろ誇れることなのかも知れないが、日本人の中に、文化的DNAとして「国家権力への盲信」が脈々と受け継がれているとしたら、本当に恐ろしいことだ。
次に、(2)の点。虚偽の自白というのは、一般の感覚では本当に実感しづらい。私自身も、頭では理解できても、被疑者の実体験を共有することは到底出来ないであろう。
連日の長時間に渡る取り調べによって、被疑者は、「自分が自白しなければ、この苦痛からは永遠に解き放たれない。自白してしまえば、さぞかし楽になるのだろう。自白しても、やっていなんだから、裁判官はちゃんと分かってくれるはずだ。」などという思いを抱くようになり、自白してしまうのだそうだ。
捜査官は、被疑者を犯人と決めつけて取り調べを展開してくるので、結局は、被疑者も、何も考えることなく、捜査官が描いたストーリーに完全に乗っかってしまうわけだ。そして、「ちゃんと分かってくれるはずだ」と期待していた裁判官も見事に検察官の描いたストーリーに乗っかってしまう、というのが、これまで何度も繰り返されてきた冤罪悲劇のパターンだ。
冤罪事件の被害者は、捜査段階で自白しても、公判が始まれば否認に転じるケースが多いが、例の「足利事件」に至っては、第一審の途中まで「自白」を続けたのだから、このあたりの心情を理解するのは本当に難しいことだ。
そもそも、日本で虚偽自白が多いのは、取り調べに弁護人が立ち会えないからだ。私が知る限り、先進国で弁護人の立会権が認められていないのは日本だけだ。取り調べは密室で行われるし、被疑者は、自分を犯人と決めつけている複数の捜査官と対峙しなければならない。非常に孤独である。弁護人が近くにいるということだけで、精神的には格段に楽になるはずだ。
最近、「取り調べの可視化」として、取り調べの全過程を録画すべきだということが盛んに言われているが、これだって、弁護人が立ち会わなければ、公正中立に録画してくれているかどうかの検証はおよそ不可能なのだ。
取り調べの可視化などいうことを声高に叫ぶ前に、何よりも弁護人の立会権を確立すべきだ。ドイツでは弁護人の立会権は当然認めるものの、取り調べの可視化は認めていない。弁護人の立会権こそが被疑者の権利擁護にとって本質的に不可欠だと理解されているからだろう。
今の日本の制度のままでは、冤罪が撲滅される日は永遠にやって来ないかも知れない…。