65)「縁起」が良いのは「お陰様」
- 2011年5月8日
- 人生・趣味
このGW中、娘の中学校に、初めて「授業参観」に行ってきた。
なんと、授業は「仏教」。そして、担当は、担任の先生。
そう、娘の中学校は、宗教系の学校であり、担任の先生は、仏教を専門に教えていらっしゃるのだ。
私自身、歴史の一部ではなく、独立した教科として「仏教」という授業を聞くのは初めてだったので、娘の様子もさることながら、どんな授業なのか、興味津々であった。
いざ、授業が始まると、内容の高度さにビックリ。
人生経験の浅い中学校1年生には難しい内容であったろうし、案の定、みんな若干退屈そうにしていたが(先生ゴメンナサイ)、大人の私にはとっても面白い話だった。
今回の授業のメインテーマは、「縁起」ということ。
3学期には、この「縁起」について、論述問題が出されるそうな。
日常生活でも、「縁起が良い」などという言い方をするが、縁起とは、「因縁生起」(いんねんしょうき)を略したもので、世の中の一切の事象は、直接的・間接的に何らかの形でそれぞれ関わり合って生滅変化しているという考え方を指し、仏教の根幹をなす思想なんだそうだ。
ここでいう「因」とは原因(内的要因)を指し、「縁」とは条件(外的要因)を指すとのこと。
多少なりとも人生経験を積んだ者ならば、この理は、スーッと受け入れられるはずであるが、中1には、ちーっとばかし難しいかな。
前のブログでもご紹介した次の英語の格言も、全く同一の理を説いているものと思われる。
< Luck is What Happens When Preparation Meets Opportunity >
(幸運は、準備と機会が出会った時に生まれる。)
私自身、最近、この理の「正しさ」をつくづく実感しているところだ。
人生というのは、究極的には「自己表現」である。
だが、表現すべき「自己」が「準備」できていなければダメだし、「表現」する「機会」に恵まれなければダメなのだ。
この「機会」については、自分ではコントロールできないが、希少な機会を見事にキャッチできるか否かは、ものすごく個人差が出るところでもある。つまり、機会をとらえる「打率」は十分にコントロールできるはずなのだ。
世の中の全ての成功者に共通しているのは、ブレない「情熱」である。
いつ訪れるかも分からない「機会」に向けた弛まぬ「準備」を支え続ける「情熱」、そして、たまたま訪れた希少な「機会」を絶対に逃さない「情熱」、ということだ。
そして、成功の度合いが大きければ大きいほど、自分だけの力ではなく、あらゆる諸条件が絶妙に折り重なって、初めて「成功」という結果が生じたのだ、ということも強く強く自覚する。
そのような「感謝」の念から自然と発する言葉が「お蔭様」というわけだ。
授業の中でも、表現は正確に再現できないが、「お蔭様というのは、目に見えない(陰の)諸条件が複雑に絡み合って今の自分があるということを悟り、目に見えない全てのもの(=お陰様)に対する感謝の念を表している言葉なのです。ここにも縁起の思想が根底にあります。」というような説明がされていた。
おそらく、中学1年生にはピンとこない内容であったろうが、大人にとってはフムフムという感じである。
今はピンとこなくても、多感な時代に、このような教育をして頂けるのは、娘の人生にとっては大いにプラスになるはず。
私も、小・中・高と宗教教育を受けてきただけに、宗教教育のプラス面は計り知れなく大きいものだと確信している。
まあ、現代社会において、私自身も、何らかの意志を持った人間チックな「神」が実在するなんて思っちゃいないが、どんな宗教であれ、「宗教的な心」を持つこと自体が、人生において非常に有益なことであると思っている。
そして、全ての宗教に共通する点を1つだけ挙げるとすれば、それは「感謝の心」であろう。
まさに「縁」あって、宗教系の学校に入学させて頂いたので、娘には、是非とも、この「感謝の心」を身につけて欲しいものだ。
今はピンとこなくても、社会に出たときに、「先生が言っていたのはこういうことだったのか!」と気づいてくれることがあったならば、娘にとっては、一流大学に進学することよりも、はるかに価値のある「宝」を得たことになる。
そう、こういう学校に入学できたこと自体が、すでに「お陰様」なのである。