70)自然科学と社会科学
- 2011年7月9日
- 社会・雑学
先日、長期間に及んだ法廷闘争が「和解」によって解決した。
和解というのは、双方当事者が、ともに何らかの「譲歩」をして紛争を解決させることであるが、一般の方々の感覚からすると、わざわざ裁判まで起こしたのに、何故、この期に及んで「譲歩」なんかしてしまうのか、不思議で仕方がないようである。
中には、「この弁護士、相当な弱腰だな。」とか、「相手の弁護士とツルんでいるのではないか。」などと妙な不信感を抱く輩もいるかも知れない。
もちろん、「判決」で白黒つけることについて、何一つ「リスク」が無ければ、和解などする必要はない。
ところが、判決をもらうということは、いろんなリスクを内包しているのだ。
まずは、「敗訴リスク」である。
裁判というのは、裁判官という人間がジャッジをするシステムである以上、熾烈な争いをしている裁判の判決は、ほとんど予想不可能である。
日本の裁判システムは、証拠をどう評価するのかすら裁判官の自由(これを自由心証主義という)であるから、証拠から事実を「認定」する際に弁護士と裁判官の「感覚のズレ」が生じ得る。
そして、その認定した事実を法的にどう「評価」するのか(例えば、どの程度の事実で過失と評価するのか)といった問題においても、またまた、弁護士と裁判官の「感覚のズレ」が生じ得るのである。
結果、予想だにしない判決をもらうことも珍しいことではない。
従って、絶対に負けられない事案こそ、和解を成立させて敗訴リスクを回避するメリットがあるのだ。
次に、「解決遅延リスク」である。
相手方がどんなに理不尽な争い方をしていても、相手方には裁判を受ける権利が憲法上保障されており、一審で敗訴しても、高裁への控訴、最高裁への上告という不服申立手段が用意されている。
最高裁まで争われたら、通常は数年を要する長期闘争になる。
その間、紛争の解決はどんどん遅延し、余計な経済的負担(裁判費用など)を強いられることにもなる。
従って、このような解決遅延リスクを回避することも、和解による解決を選択する大きな理由である。
最後に、「回収不能リスク」である。
せっかく、勝訴判決を得ても、実際に相手方から賠償金などを回収できるかどうかは全く別問題である。
交通事故などで相手方が自動車保険に加入している場合などは、保険会社が支払ってくれるので心配いらないが、通常は、個人からお金を取るのは簡単なことではない。
勝訴判決を得れば、相手方の財産を差し押さえて換金する「強制執行」という手続が実行できるが、相手方の財産は自分で探さねばならない。
これが想像以上に大変で、結局、相手方からお金を取ることを断念するケースも珍しくないのだ。
ところが、和解による解決であれば、判決とは違って「納得」して妥結している以上、わりと「自発的に」お金を支払ってくれるので、このような観点からも和解による解決を選択することが多い。
以上のごとく、和解による解決というのは、あらゆるリスクを回避できるという点において「賢明な選択」であるのだが、依頼者に対して、その「賢明さ」を理解してもらうのは容易くない。
今回の案件の場合、依頼者ご自身とその奥様、お二人とも「理系バリバリ」の方々であったので、「和解」による解決を理論的に「理解」するのが相当難しかったようである。
言うまでもなく、和解というのは、白黒つけずに、双方の言い分を足して2で割ったようなサッパリしない結論で「妥協」するものゆえ、「正しいか、正しくないか」の二者択一しかない理系の方にはシックリこない解決なのであろう。
学問は、大きく分ければ、自然科学・社会科学・人文科学の3つに分類される。日本では、自然科学が「理系」であり、残り二者は「文系」という括りになる。
社会科学に含まれる学問には、法学・政治学・経済学・経営学・商学・社会学などがある。
ちなみに、理系・文系という分け方は日本特有のものであるらしい。
欧米では、自然科学と社会科学を「サイエンス(science)」と呼び、人文科学は「ヒューマニティーズ(humanities)」という区分になるそうだ。
日本で、自然科学と社会科学を理系と文系にわざわざ分けたのは、おそらくは、政治的な背景があったようである。
欧米諸国に一刻も早く追いつきたかった日本は、「技術」と「制度」を欧米から早急に輸入して、日本なりに改良・開発していく必要があった。
そこで、技術開発を担う者を理系、制度開発を担う者を文系と区分し、旧帝大出身者を中心に、官僚機構において、前者を「技官」、後者を「事務官」として採用・育成していったのである。
そして、この区分は、前者が使われる側(スペシャリスト)で、後者が使う側(ゼネラリスト)というカースト制度へと発展し、官僚機構にとどまらず、大企業にもこの区分が受け継がれ、日本全体に「理系の悲劇」が蔓延していったのだ。
現に、文部科学省と国土交通省を除いては、技官は絶対に「事務次官」には昇進できないとされているし、この国が、東大法学部出身者によって支配されていることは周知の事実でもある。
……っと。話がそれてしまった。
それはさておき、自然科学と社会科学は、同じ「サイエンス」だとしても、その内容は大きく異なる。
自然科学においては、自然法則のみが支配する「自然」が研究対象であるため、「事実」と「理論」だけが、その学説の正当性を支持する要素たり得る。
ところが、社会科学においては、時に不可解な「意思」を持つ人間によって構成される「社会」が研究対象であるため、「理論」だけでは説明できない結論が不可避的に生じ得るのだ。
私見だが、意思決定には4つの要素が絡む。
式で表せば次のとおり。
意思決定 = 事実 + 論理 + 価値観 + 直感
このうち、価値観と直感という要素は、自然科学においては、絶対に存在し得ない要素である。
今回の和解においても、当方が完全勝訴できる可能性が極めて高いのに、何故、譲歩するという選択をする必要があるのか、最後の最後まで、当方依頼者は悩み抜いていた。私との電話・面談を何度も何度も重ねた末、ようやく、和解に踏み切ったのだが、依頼者の奥様は、最後まで腑に落ちなかった感じだ。
もちろん、弁護士としては、考え得る選択肢のメリット・デメリットを丁寧に説明するのみであり、最終的には、依頼者自身の意思決定に従うだけであるが、今回の場合は、解決遅延リスクを回避するという「価値判断」を依頼者は選択したのであった。
社会における紛争というのは、論理だけで行動しない人間が相手である。
どれほど、当方の主張が真実で、証拠も完璧で、理論的にも完全無欠であったとしても、相手方が常識から逸脱した人物であれば、本当に最後の最後まで闘い抜くべきか否かは考えどころである。
自分の中の正義を貫き通したがために、相手方の理不尽な「逆ギレ」を招き、自宅前で「ブスリ」なんていう悲劇も現実にあり得るのだ。
この場合、紛争を解決したつもりが、さらに大きな紛争を招いてしまったわけであり、言ってみれば、相手方の「逆ギレリスク」を見落とすというミスを犯したことになる。
このあたり、当事者というのは、自分の主張の正しさを証明したい、相手方に相応の制裁を与えたい、などという強い感情に走りやすいのであるが、白黒をつけることが、かえって「真の解決」を遠ざけてしまう場合もある、ということを知る必要がある。
紛争が真に解決したと言うためには、双方当事者の感情が沈静化する必要があるが、コテンパンに打ち負かされた敗訴当事者は、時として、感情をさらに激化させてしまうことがあるのだ。
このような観点に鑑みると、「和解」という解決は、文系・社会科学的な「玉虫色」の解決なのかも知れないが、人間というファジーな存在に適した「大人の智恵」とも言える絶妙の解決手法でもある。
かく言う私も、弁護士なりたての頃は、理論的な精緻さに快感を見出し、和解による解決では不完全燃焼のような感じだったが、今では、和解による解決に持ち込める能力こそが、紛争解決を使命とする弁護士に求められる真の「解決能力」であると確信している。