15)歴史的総選挙の陰で…
- 2009年9月1日
- 法律・政治
平成21年8月30日は、まさしく歴史的な総選挙となった。平成5年にも自民党が下野したことはあったが、当時の細川政権は、選挙後の数合わせによる事後的な連立政権であり、国民の明確な意思によって誕生した政権ではなかった。結局、9ヶ月ほどの短命政権で終わり、自民党があっさり政権を奪還することとなる。
ところが、今回の政権交代は、国民の投じた一票の積み重ねによるダイレクトな政権交代であり、国民が明確に民主党政権を望んだ結果である。いよいよ二大政党制が機能し始める可能性を開いた点で、極めて意義深いと言えよう。
今回の選挙結果は、前回の郵政選挙と真逆に振り子が振れたわけであり、国民の投票行動が政権選択に直結することを政治家も国民も痛烈に思い知らされた。しかも、小選挙区では、民主党は5割の得票率で7割の議席を獲得したらしく、そのレバレッジの大きさにも驚かされる。つまり、民意の変動幅以上に政権交代が起こりやすくなったのである。
国民の意に反する政治行動を取れば、政権の座から簡単に引きずり下ろされてしまい、場合によっては、議員生命も絶たれてしまうという究極の緊張感は、民意を反映した政治の実現に大いに資するであろう。
ところで、歴史的総選挙の陰で、国民の関心を集めることもなく(?)、淡々と最高裁判所裁判官の国民審査が実施された。初めて投票所に行った方の中には、「何だこりゃ?」と思った方もいるだろう。
私も妻とともに投票に行き、帰りの車中で、妻から「いつも思うけど、国民審査って何なの?何の意味があんの?」と質問された。まあ、国民の大多数の意識も同様のはずだ。
日本国憲法79条には、「最高裁判所の裁判官の任命は、その任命後初めて行はれる衆議院議員総選挙の際国民の審査に付し、その後十年を経過した後初めて行はれる衆議院議員総選挙の際更に審査に付し、その後も同様とする。前項の場合において、投票者の多数が裁判官の罷免を可とするときは、その裁判官は、罷免される。」との規定があり、要するに、憲法で決まっている以上、やらないわけにはいかん、ということだ。
だが、名前すら聞いたことのない裁判官(私だって、ほとんどの裁判官は知らない)に×を付けろと言われて、意味のある×を付けられるはずもなかろう。
これまでに、罷免された裁判官(つまり、×が投票総数の過半数)は一人もいない。当たり前と言えば当たり前だ。×を付けられる割合も、5~15%程度であり、国民の声どうこうというほどの統計的意味はない。大多数の×は、「適当に誰か一人に×を付けとこうかなあ」という軽々なものであろう。
憲法のどの教科書を開いても、「国民審査の実効性は薄い。」というのがもはや定説(?)になっている。
私自身は、学生時代から、国民審査制度の持つ意義には懐疑的であり、実効性がないくらいで丁度よいと思っている。
何故かと言えば、司法の理念である自由主義と議会の理念である民主主義は、ある局面においては真っ向から対立するものだからだ。
ある局面というのは、「少数派の人権侵害」という局面である。
ご存知のとおり、民主主義というのは多数派支配を是とするものであり、少数派の声は最終的には無視される結果となる。
一方、自由主義というのは国民の自由(人権)は絶対に保障され、国家権力によっても侵害され得ないとするものだ。当然ながら、少数派の自由(人権)も保障されねばならない。
ところが、民主主義による多数派支配が暴走した結果、少数派の自由(人権)が侵害されてしまった場合、民主主義に基づく結論と自由主義に基づく結論が真っ向から対立することとなるのだ。
最高裁判所は「憲法の番人」と呼ばれる。多数派支配による国会が暴走して、憲法に抵触する法律を作った場合、その法律を違憲無効にして憲法を守ることが最高裁判所には強く期待されているからである。
もともと、憲法というのは、君主主権において、君主が暴走して臣民の人権を不当に侵害しないように、君主の権力に一定の歯止めをかけるために存在した。
その後、君主主権が崩壊し、国民主権が一般的になった現代においては、民主主義を反映した国家権力(多数派)が暴走して「少数派の人権」を不当に侵害しないようにする歯止めとなるべき存在である。
即ち、憲法は、民主主義(多数決支配)の暴走から少数者を守る「最後の砦」なのである。
例えば、我が国の民意が暴走して、国粋主義にでも突っ走ったらどうなるか。もしかすると、外国人の人権を侵害する法律が次々と成立していくかも知れない。
そんな時、憲法の番人たるべき最高裁判所裁判官が、暴走した民意の力によって次々と罷免されてしまったら……。
アメリカの大統領は、「自由と民主主義」をセットにして演説することが多いが、民主主義と自由主義とは異なる概念である。
国民の自由を国家権力から守る(自由主義)ためには、民主主義が今のところベストな方法だと考えられているに過ぎず、私は、あくまでも自由こそが「目的」で、民主主義は単なる「手段」だと捉えるのが正しいと思っている。
だからこそ、自由の「最後の砦」である司法に対しては、民主主義の過度な介入は有害でしかないというのが、私の学生時代からの一貫した考えだ。
もちろん、これまでの最高裁が「憲法の番人」としての役割を全うしてきたかどうかは別問題だが。
ということで、今年も、私は誰にも×を付けなかった。