113)体罰は教育にあらず!
- 2013年2月3日
- 社会・雑学
連日、教育現場における「体罰」の問題が報道されている。
大阪市立桜宮高校の男子生徒が、バスケ部の顧問から体罰を受けた翌日に自殺するという何とも痛ましい事件が発生したかと思ったら、今度は、トップクラスのアスリートである日本女子柔道代表選手ら15人が、監督の体罰を日本オリンピック委員会に告発し、監督が辞任に追い込まれるという問題が発生した。
何だか、日本中のスポーツ界に「体罰」が蔓延しているのか?と突っ込みたくなるほどの異常事態だ。
おそらく、スポーツ強豪校の体育会系部活動を経験した人なら、体罰らしきものが日常的に横行しているであろうことは、容易く想像できるはず。
私の母校であるPL学園もスポーツ強豪校だったので、部活動はメチャメチャ厳しかった。
幸い、私自身は「体罰」を受けた経験は無かったが、確か、先輩が監督から平手打ちをされている場面などは何度か見た記憶があるなあ…。
まあ、それも、もう30年近くも前の時代の話だから、今では、もちろん体罰なんて無いとは信じるが、当時、もしも私自身が体罰を受けていたら、どういう反応をしていただろう?
体罰というのは、要するに「肉体的苦痛を伴う制裁」のことである。
体罰が何故ダメかと言えば、重大な人権侵害であるとともに、そもそも「教育」に値しないからだ。
体罰の本質は「制裁」なのであって、刑罰と全く同質である。
そして、刑罰の本質は「見せしめ」効果による「社会秩序維持」である。
つまり、「人を殺せば死刑になるから、人を殺すなよ。」という国家のメッセージが刑罰の本質である。
誰でも自由に人を殺してよければ、為政者自身もいつ殺されるか分からないもんね。
こういう刑罰の思想と教育とは根本的に相容れない。
教育の目的は「人間的成長の支援」だからだ。
もちろん、刑罰にも「受刑者を更生させる」という教育的思想はあるのだが、国家としては「秩序を乱さない人になって社会に復帰してくれればよい。」と期待しているだけであり、本音としては、受刑者個人の人間的成長に全く関心はない。
刑罰の本質が「見せしめ」であることは、死刑制度が存在するということだけでも明らかなことだ。
死刑囚に対する教育という概念自体があり得ないからね。
さて、私が思うには、教育の最終目的は「自律した人間を育てる」ことに尽きるということ。
発展途上国に海外支援をする際に、「魚を与えるのではなく、魚の釣り方を教えてあげなきゃダメ。」ということが言われるが、まさに「自分の頭で考え、自分の規範で行動できる人間」に育てることが教育のはず。
以前にも本ブログで紹介したが、人間のモチベーションに関する基本的な理論に「自己決定理論」というものがある。
学ぶこと、働くこと等多くの活動において自己決定すること(自律的であること)が高いパフォーマンスや精神的な健康をもたらすことを説いた理論だ。
自己決定理論によれば、人が何かをやろうとする「動機づけ」には、次の5段階ほどのレベルがある。
1)「やらないと叱られるから」(制裁レベル)
2)「バカにされたくないから」(評価レベル)
3)「自分にとって重要だから」(意義レベル)
4)「自分の価値観に沿うから」(信条レベル)
5)「楽しくて大好きだから!」(感情レベル)
言うまでもなく、体罰で教え込める「動機づけ」は、1)だけである。
3)~5)のレベルであれば、「自律的」と呼んでもよいであろうが、1)と2)は、明らかに「他律的」であり、このレベルの「動機づけ」を植え付けていくのであれば、教育とは程遠い。
動機づけが「他律的」である以上、他律の主体である外圧が無くなれば、途端に、その動機づけ自体が失われてしまう。
制裁の判断や評価を下す他者に「気づかれなければOK」という発想に陥ること必至だからである。
最近、AKB48の峯岸みなみが「丸刈り」で謝罪するという映像が報道された。
この映像自体、とっても異常な感じを受けたが、彼女の訴えたかったことは、きっと「AKBを辞めたくないので、これ(丸刈り)で許して欲しい。」ということなんだろう。
おそらく、彼女は、禁止されている男性との交際報道が出てしまい、頭が真っ白になって、制裁を受ける前に、自ら先手を打って「丸刈り謝罪」をしたのに違いない。
結局のところ、男性との交際も「ばれなきゃいいや。」という思いがあったということなんだろうし、1期生の彼女でもそう考えるくらいのルールだったら、とっとと、こんなルール撤廃してしまえばいいという気がする。
別に、アイドルだからって恋愛禁止っていうのもねえ…。
まあ、何よりも、「丸刈り」が謝罪のシンボルとされること自体、どうなんよ?という気がする。
例えば、教師が生徒に「丸刈り」を強制すれば、暴行罪や傷害罪になる(いずれに該当するかは学説上の対立がある)。
もちろん、立派な体罰ではある。
だから、峯岸のやったことは、自ら「体罰」を受けているのと同じことであり、結局、「ルールを破ると体罰を受けても仕方ない」という悪しきメッセージを日本中に流布しているに等しいのだ。
こんなメッセージが流れ続けている状態を放置しているAKBを支える大人達の神経もどうなってんの?という気がしてならないが。
先日、大阪市立桜宮高校の体罰問題を受け、市教育委員会が、元巨人の桑田真澄氏を招いて教職員向けの研修会を開いたそうだ。
桑田氏は、「暴力指導は、戦前の軍隊教育を引きずっている」と指摘し、体罰については、「ダメなものはダメで、論理なんていらない。仕返しをされない絶対服従の中で行われる。一番ひきょうだ。」と訴えた。
熱弁に耳を傾けた橋下徹市長も、「開眼させられた。暴力指導は兵隊養成だ。絶対根絶する。」と述べたらしい。
また、桑田氏は、米大リーグで選手だった06~08年に現地の学校を訪問したエピソードを披露し、「怒鳴る、殴るは一切なかった。伸びやかに、ゆったりと野球をしていた。その中からメジャーリーガーが出る。体罰がなくても素晴らしい選手が育つという証だ。」とも述べ、さらに「体罰の痛みや恐怖心で根性が付いた実感は僕には全くない。助けられたことも一度もない。」と強調し、「声を大にして言いたいのは、一人の貴い命が失われたという重大さだ。」と指摘したとのこと。
私は、桑田氏とはPL学園の同世代であり、高校時代、間近で見てきて思うのは、彼は、本当に「自律的な人間」で、誰にも強制されることなく、将来の夢に向かって、黙々と練習に励んでいたという事実だ。
いわば、教育者が目指す理想的な生徒であったろう。
そんな「自律的」な彼が、そして、甲子園で数々の伝説を残し、プロ野球でも一流を極めたトップアスリートの彼自身が、「スポーツ(教育)において、体罰は無意味で、一番ひきょうな行為だ。」と断言している事実を、教育関係者は本当に重く受け止めて欲しい。
体罰は、教育の理念とは真逆の「他律的な人間」を「量産」する最も簡単な方法だ。