沈思雑考Blog

ソレイユ経営法律事務所の代表である弁護士・中小企業診断士
板垣謙太郎が日々いろいろと綴ってゆく雑記ブログです。

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2)疑わしきは罰せず

 間もなく裁判員裁判がスタートする。
 だが、裁判員裁判の対象となる刑事裁判は本当に難しい。マスコミに登場する有識者とされる人達のコメントを聞いていても、刑事裁判の理念・原則を十分理解していないと思われる人が少なくない。
 となれば、裁判員に刑事裁判の理念・原則を十分理解してもらうということは、相当に難しい注文だろう。

 最近、2つの注目される最高裁判決があった。
 1つは、痴漢冤罪事件として最高裁で逆転無罪となった事案、もう1つは、死刑が確定した和歌山毒カレー事件だ。
 いずれも、事実認定(被告人が犯人かどうか)が最大の争点になった点では共通している。
 この判決に対する論評は様々だが、刑事裁判における「疑わしきは罰せず」という原則を正しく理解していないと思われるものが目立つ。

 「疑わしきは罰せず」という言葉の意味自体は理解できるだろう。被告人が犯人であるかどうかが「疑わしい」というレベルでは無罪であり、「間違いない」というレベルに達しなければ有罪には出来ないという原則だ。
 だが、どの程度のレベルまでが「疑わしい」というレベルで、どの程度のレベルからが「間違いない」と言えるのかは相当に悩ましい問題だ。おそらく、10人いれば10人ともが違うニュアンスで捉えている可能性が高い。

 仮に、被告人が犯人である可能性を数字で表現できたとして、可能性が50%程度なら無罪だと言う人が多数派だろうが、可能性が70%に達すれば有罪だと判断する人が急増するのではなかろうか。
 一方、可能性が90%に達しても、まだまだ無罪とする人もいるはずだし、可能性が100%でなければ全て無罪だと言い切る人もいよう。
 もちろん、可能性を数字で表現すること自体が不可能だから、話は一層ややこしいのだが…。

 「疑わしきは罰せず」を別の表現にすれば、「合理的な疑いを超える証明が無ければ無罪」ということになる。本当に理解しにくい表現だが、要するに、被害事実が証明されている場合であれば、「常識的(合理的)に考えて、被告人以外に犯人がいる可能性(疑い)があれば無罪」ということだ。ポイントは2つある。

 1つは、「常識的に考えて」という点だ。つまり、科学的な100%の証明は要求されていないということだ。ここは誤解が多い。論理的思考に馴染んでいる人ほど、ついつい、あらゆる空想的な可能性を想定してしまいがちとも言える。和歌山毒カレー事件についても、物証なき以上、被告人以外の犯人の可能性を100%排除することが出来ないから無罪だとする論評が多く見られるが、そこまでの証明は要求されていないのだ。
 事実は小説よりも奇なりと言われるが、誰も想像だにしない真相というものがひょっとするとあるのかも知れないが、人間が判断を下す裁判システムにおいては、裁判官や裁判員に真相を見抜く神のような能力を求めているわけではないということだ。

 もう1つは、「被告人以外に犯人がいる可能性」を検討せよという点だ。「被告人が犯人かどうか」という点だけに思考が集中すると、「被告人を犯人と考えれば全て合理的に説明が付く」というレベルで有罪にしてしまいがちになる。
 だが、被告人を犯人と考えるのが合理的だとしても、被告人以外の犯人の可能性が合理的に排除できないという例はいくらでもあり得るのだ。満員電車内での痴漢事件などが典型だろう。Aが犯人と考えても、隣にいたBが犯人と考えても、どちらのケースも全く不合理ではないということは十分あり得る。どちらかの可能性を合理的に排除できなければ、2人とも無罪とするしかない。
 現実に被害者がいるのに誰も処罰を受けないという事態に納得いかない人も多いだろうが、刑事裁判の理念は、「10人の真犯人を取り逃がしても、1人たりとも冤罪被害者を出してはいけない」ということだ。
 一般的な国民感情として、この刑事裁判の理念がどこまで理解され得るか。大いに不安は残る。陪審制が完全に定着しているアメリカでは、刑事裁判というのは「黒か白か」を判断するのではなく、「黒か灰色か」を判断するものだと小学生時代から教育していると言う。