181)国民生活賠償保険を!
- 2015年4月26日
- 法律・政治
本年4月9日、最高裁にて、ある「画期的」な判決が言い渡された。
道路に飛び出したサッカーボールを避けて転倒事故が起きた場合、そのボールを蹴った「子の親」は賠償責任を負うべきか、が争点となった民事訴訟だ。
この不幸な事故が発生したのは、2004年2月25日。
被害者は、この事故で寝たきり状態となり、1年4か月後、誤嚥性肺炎にて死亡した。
一審・二審は、親の賠償責任を肯定し、1千万円超の賠償を命じたが、最高裁は、「危険でない行為で、たまたま人に損害を与えた場合、親に賠償責任はない。」との「画期的判断」を示したのだ。
ある報道番組で、メイン・キャスターが、「10年もかけて、何を今さら『当たり前』のことを言ってるんだ!という気持ちになりますね。」とコメントしていたのが印象的だった。
なるほど、国民感情からすれば、そのとおりなのかも知れない。
だが、一審・二審が、親の賠償責任を当然のごとく認めたように、司法界の常識は国民感情からは乖離したものとなっていたし、我々のような弁護士にとっても、今回の最高裁の判断はホントに「画期的」だったのである。
司法界の根底に流れる共通の価値観を1つだけ挙げるとすれば、ズバリ「被害者救済」ということになろう。
加害者が被害者の権利を侵害した場合、被害者は加害者に賠償責任を問える。
通常は、これで被害者救済としては十分なはずである。
だが、その加害者が十分に責任を果たせない者だったとしたら?
あるいは、加害者が人ではなく、物や動物であったとしたら?
当然、被害者は全く救済され得ない。
でも、それでは人権保障は全うされず、社会秩序も維持されない。
じゃあ、どうするか?
その加害者(加害物)を監督・管理すべき者に責任を負わすしかない。
ということで、民法は、4つの「代位責任」を用意した。
(民法714条)責任無能力者の監督義務者の責任
前二条の規定により責任無能力者がその責任を負わない場合において、その責任無能力者を監督する法定の義務を負う者は、その責任無能力者が第三者に加えた損害を賠償する責任を負う。
ただし、監督義務者がその義務を怠らなかったとき、又はその義務を怠らなくても損害が生ずべきであったときは、この限りでない。
(民法715条)使用者の責任
ある事業のために他人を使用する者は、被用者がその事業の執行について第三者に加えた損害を賠償する責任を負う。
ただし、使用者が被用者の選任及びその事業の監督について相当の注意をしたとき、又は相当の注意をしても損害が生ずべきであったときは、この限りでない。
(民法717条)土地の工作物の占有者・所有者の責任
土地の工作物の設置又は保存に瑕疵があることによって他人に損害を生じたときは、その工作物の占有者は、被害者に対してその損害を賠償する責任を負う。
ただし、占有者が損害の発生を防止するのに必要な注意をしたときは、所有者がその損害を賠償しなければならない。
(民法718条)動物の占有者の責任
動物の占有者は、その動物が他人に加えた損害を賠償する責任を負う。
ただし、動物の種類及び性質に従い相当の注意をもってその管理をしたときは、この限りでない。
民法714条と715条は、賠償能力が全くない「責任無能力者」や賠償能力が十分でない「被用者」の行為に起因する事故を想定した規定で、民法717条と718条は、そもそも賠償責任を問う対象となり得ない「物」や「動物」に起因する事故を想定した規定である。
いずれの規定も「被害者救済」を目的とした規定だから、監督・管理者が責任を負うのが「原則」であり、その者たちの「無過失が証明」された場合に初めて、例外的に責任を免除するとの条文構造になっている。
だから、これまでの司法判断においては、監督・管理者の責任が免除されるということ自体、被害者救済の思想と逆行することなので、全くと言ってよいほど免責を認めてこなかったのである。
司法が、如何に「被害者救済」を重視しているのかが分かる2つの事例がある。いずれも、大正時代の古い判例だが、基本思想は現在に継承されている。
1例目は、11歳11ヶ月の少年店員が、自転車で物を運搬中に他人に怪我をさせた事例で、大審院(現在の最高裁)は、少年店員の「責任能力を肯定」した。
2例目は、12歳2ヶ月の少年が、友人と遊んでいて、空気銃で友人の左眼を失明させた事例で、大審院は、少年の「責任能力を否定」した。
おや?と思うはずだ。
何しろ、12歳2ヶ月の少年の責任能力が否定されて、11歳11ヶ月の少年の責任能力が肯定されたのだから。
でも、これは「被害者救済」というキーワードに鑑みれば、首肯できる結論だ。
民法715条の使用者責任は、被用者について不法行為責任が成立することが前提であり、被用者は「責任能力者」でなければならない。
一方、民法714条の監督義務者責任は、当然ながら、加害行為者が「責任無能力者」であることが大前提だ。
ということで、いずれも、使用者や親に責任を追及し、被害者救済を全うさせがたんための判断だったということだ。
確かに、今回の最高裁判決は、子を持つ親の立場からすれば、「それは、そうだろうよ。」と突っ込まずにはいられない、極めて「常識的な」内容だ。
学校の校庭で、サッカーゴールに向かって子供がサッカーボールを蹴る、というごくごくありふれた日常の行動を、その場にいない親がどうやって監督すんの?という話だもんね。
とは言え、この極めて「常識的」な判決によって、これまで司法が至上の価値観としてきた「被害者救済」が一歩後退したことは否めない。
遺族側の代理人弁護士は、「被害者救済の観点からは非常に残念な判決だ。」とコメントしたが、それはそれで十分理解できるコメントだ。
現代社会では、日常生活の中にも、ありとあらゆる危険が潜んでいる。
その中で、たまたま発生してしまった不幸な事故については、国民全員が加入する保険で対応すべきではなかろうか。
現在の保険制度でも、各保険会社が発売する「個人賠償責任保険」があるにはあるが、国民全体の問題意識は低く、当然ながら、その加入率は低い。
全国民が遭遇する可能性のある日常生活上の危険を対象とするという趣旨からは、任意加入の保険制度とするのではなく、国民健康保険のごとく、政府主導で、国家全体の「インフラ」としての「皆保険制度」を創設すべきであろう。
例えば「国民生活賠償保険」という形で、自動車事故や労災事故など、保険制度が十分機能している分野を除き、生活上の人身被害だけを対象とした最低保障の制度を創設するだけでも、被害者救済としては十分に機能し始めるはず。
そして、自賠責保険(強制保険)と任意保険の関係と同じく、最低保障の「国民生活賠償保険」に、任意で「個人賠償責任保険」を上乗せすることが出来る制度設計にすれば、現行の個人賠償責任保険もより注目され始めるに違いない。
我が家でも、子が幼稚園に行き始めた頃からは、個人賠償責任保険に加入している。学校での事故、部活での事故、自転車運転中の事故、子が加害者となるケースはいくらでも想定できる。
むしろ、親が子の近くにいない時間の方が多い日常の中で、子の監督を親が全うすること自体、不可能なことだ。
最高裁が、親の監督責任を若干は軽減してくれたものの、それでも、親の監督責任が問われるのが「原則」であることには変わりない。
不慮の事故は、被害者だけでなく、加害者をも「不幸」にしてしまう。
政府が、皆保険制度としての「国民生活賠償保険」を導入することを期待しつつも、現状、このような制度がない以上、子を持つ親としては、自らの家族のためにも、被害者のためにも、是非とも「個人賠償責任保険」に加入して頂きたいものだ。
事故を100%防ぐことは不可能でも、事前に保険に加入すること自体は可能だ。
今の世の中、想定される限りの事故に備えて、十分な保険に加入しておくことは、最低限の「マナー」かもね。