27)城の崎にて
- 2010年1月8日
- 人生・趣味
1月3日~5日、家族で「城崎温泉」に行ってきた。1月5日が妻の誕生日なので、近年は、家族で温泉旅行に行くのが恒例行事(?)となった感があるのだが、今回は、妻の両親も誘っての賑やかな家族旅行となった。
我が家の家族旅行は、毎回、妻と仲の良い近所の奥様(某旅行会社勤務)にお願いしているのだが、いつも温かいお心遣いを頂戴し、感謝の念が尽きない。本当にありがたいことだ。
城崎温泉は、兵庫県北部に位置し、日本海側だけあって、ほんとに寒かった。
初日が雨~みぞれ、2日目がウソのような快晴、3日目が大雪というサービスたっぷりの空模様だったが、それぞれの天候がもたらす何とも言えない風情を存分に楽しめたし、町並みも実に情緒深く、心身ともにリフレッシュできた最高の旅行であった。
ただただ、感謝、感謝である。
ところで、城崎温泉と言えば、志賀直哉の「城の崎にて」が有名であるが、恥ずかしながら、私は一度も読んだことがなかったので、これも何かの縁だと思い、文庫本を購入して「城の崎にて」を読んでみた。
超短編小説なので、アッという間に読めてしまうが、短文で巧みに情景や心情を描写しており、さすがに「名文」と呼ばれるだけのことはあると感心した。
テーマは「生と死」であり、「あら、新年早々、こんな内容だったのね…。」と若干ひいてしまったが、それなりに考えさせられるものはあったので、読んでみて良かったとは思う。
私自身、文学の内容を批評をするだけの力量はないので、「城の崎にて」自体の論評は割愛するが、「生と死」については、誰もが一度は考えたことのあるテーマだろう。
だが、結局、確かな答えは出ないし、日常の些事に忙殺されて、いつの間にかそんなことを考える余裕すら無くなってしまう、というのが実情ではあるまいか。
私も、十代の頃、「死ぬことが怖い」と思い悩んだこともあるが、今では、自分なりに一応の結論付けをしているつもりだ。
私は、死後の世界や来世は全く信じていないので、「死ぬ」ということは、「完全なる無」だと確信している。つまり、「パソコンの電源を完全に切る」ようなもので、「自分が死んだ」ことを自覚する「自分(意識)」がもはや存在しないのだから、怖いとか悲しいといった感情すら生じる余地はない。
従って、「死んだ後は、何ら怖くない」はずだ。
ただ「怖い」と感じるのは、意識がまだ存在している「死ぬ直前」だけである。
とすれば、「死ぬ直前」の過ごし方だけがカギとなり、「ああ、幸せな人生だったなあ…。」と感慨に耽って死ねたら最高だろう。目指すのはココしかない。
そのためには、やはり、「自分としては、ほぼやり残したことはない。」と言い切れる人生にする必要があるはずだ。
以前、五木寛之氏の「林住期」という本を読み、人生設計についてのヒントを得たような気がした。
古代インドでは、人生を次の4つの時期(四住期)に分けていたそうだ。
学生期(がくしょうき)…修行に励む時期
家住期(かじゅうき) …職業と家庭を持って社会生活を営む時期
林住期(りんじゅうき)…世俗を離れて林の中で自己と向き合う時期
遊行期(ゆぎょうき) …天下を周遊して生涯の結実を世に残す時期
この四住期を私なりに解釈すれば、次のようになる。
学生期…生き方を学ぶ時期
家住期…人のために生きる時期
林住期…己のために生きる時期
遊行期…死に方を考える時期
私は、できれば80歳までは生きたいと願っている。今は、ようやく人生の折り返し点に到達したばかりだ。そして、言うまでもなく、「家住期」の真っ只中であるから、まだまだ「人のために生きる」時期である。
弁護士に定年はないので、生涯現役を貫く人もいるが、私は、スポーツ選手と同様、己の知力・体力・気力と正直に向き合いながら、どこかでスパッと「林住期」に切り替えたいと思っている。願わくは、「惜しまれつつ引退したい」というところだ。
そのためには、現在の「家住期」において、やれることをやり尽くし、未練なく「林住期」に移行する必要がある。
ということで、今年1年間、「人のために生きる」のに必要な「人間的な総合力」をコツコツ培っていき、知力・体力・気力が最高に充実するよう、いろんなことにトラ(寅)イしていきたい。