40)藁の上からの養子
- 2010年6月3日
- 法律・政治
耳慣れない言葉であろう。日本語としても、何だか「???」かも知れない。
ごく簡単に言うと、他人の子を「実子」(嫡出子)として「出生届」を提出することである。つまり、実態としては完全に「養子」なのだが、外観上は「実子」として戸籍上の届出をするというわけだ。
藁というのは、お産をする寝床に敷くワラのことであり、表現自体も実に古くさいのだが、出産後、子の生まれたことを世間に公表する前に、他人の子を養子として貰い受ける、というほどの意味合いである。
何故こんなことをするかと言えば、戸籍上は実子としての外観を備えることとなるため、養子であることを「隠す」方法としては最適だからであり、古くから数多く行なわれてきたようである。
だから何なんだという声も聞こえてきそうだが、法律的には、実に悩ましい問題を孕んでいるのである。
私が現在担当している案件でも、この「藁の上からの養子」問題で、実に2年以上に渡って振り回され続けている案件がある。
現在進行中の案件なので、詳細を語ることはできないが、全て決着したら、概要程度はご紹介したいと思う。
そもそも、他人の子を「実子」として出生届をする親の気持ちというのは、どんなものだろうか?
普通に想像すれば、養子であることすら隠して、わざわざ「実子」として届け出るという行為に及んでいる以上、子との間に「養子縁組を超えた強い親子関係」を築くという「熱~い思い」に充たされているはずである。
ところが、その親のせっかくの「熱~い思い」も、法の壁にアッサリ阻まれてしまう。
つまり、他人の子を実子として届け出るのは、どう弁解しようとも「虚偽の出生届」なのであり、届出自体が「無効」というのが法律的な結論である。
この結論は、最高裁が一貫して述べているものであり、現行法の解釈としては、動かし難いものである。
だが、虚偽の出生届だとしても、「親子関係を築きたい」という意思は明確に表示されているのだから、せめて、現行法でも許されている「養子縁組」の効力くらい認めてあげたらよいのではないかとも思われる。
法律学においては、「無効行為の転換」と呼ばれる論点である。つまり、本来意図した法律行為についての効果が「無効」でも、その法律行為が他の類型の法律行為の要件を充たしているときには、後者の法律行為としては「有効」と認めることを言う。
ところが、この「無効行為の転換」もまた、最高裁は、一貫して否定し続けてきたのだ。
形式論としては、法律に従った養子縁組の届出をしていない以上、養子縁組の要件を充たしていないことになる。
より実質的には、未成年者を養子とするには家庭裁判所の許可が必要であり、虚偽の出生届を全てOKとすると、家庭裁判所の許可をわざわざ受ける人がいなくなり、脱法行為が横行するから、というのが理由であろうと思う。
とは言っても、どうせ裁判所が最終的に判断するのだから、特に問題のない事案であれば、養子縁組としての効力くらいは認めてあげたらよいと心底思う。
子は親を選べない。オギャーと生まれて、実の親がちゃんと出生届を出してくれるか、他人の家に養子としてもらわれるのか、はたまた、他人に虚偽の出生届を出されてしまうのか、子に選択権は一切ない。
にも関わらず、実子としてもダメ、養子としてもダメとなったら、その子は、あくまでも「ただの他人」という立場に甘んじるしかないのである。
通常、親子関係・兄弟姉妹関係が円満なら、「藁の上からの養子」が法的問題として紛争化することはない。
だが、親子関係が険悪になってしまったり、あるいは、兄弟姉妹間で遺産相続の問題で揉め始めると、「そう言えば、お前は、血の繋がった子ではなかったなあ。」などと鬼の首を取ったような態度に出られてしまうということだ。
例えば、資産家の父が亡くなる直前に太郎・次郎・花子の3人の子を枕元に呼んで、こう言ったとする。「実はなあ、次郎、お前は実の子ではないんだ。生まれてすぐに、ある人から譲られた子なんだ。だが、ワシは、3人とも実の子として大切に育ててきた。遺産は、3人で仲良く分けてくれ。」と。
これだけなら、次郎がショックを受けただけで話は終わる。
ところが、遺産が巨額であればあるほど、太郎と花子の内心には、遺産の分け前を少しでも増やしたいという、人間としてはごく自然ではあるが「醜い欲望」がフツフツと芽生え始めるのだ。
いやいや、太郎と花子にその気はなくても、遺産相続問題というのは、その背後にいる「配偶者」が糸を引くことが実に多い。
そこで、太郎と花子は、結託して、父の死後、父と次郎との間には親子関係がないという「親子関係不存在確認の訴え」という訴訟を提起することになるのだ。
次郎からすれば、「そんなバカな!あまりにも理不尽ではないか!」ということになるのだが、前述のとおり、法律はあまりにも冷たい。
そう、基本的には、「親子関係がない」という結論になるのだ。
親子関係がないのだから、相続だってあり得ない。
あまりにもヒドイ!!
だが、これが現実だ。
最高裁は、このような「藁の上からの養子」に対して、前述のとおり、一貫して、何ら救済をしてこなかった。
だが、平成18年7月7日、ようやく最高裁が動いた。2つの事件について、初めて、このような「親子関係不存在確認の訴え」自体が「権利の濫用」に該当する場合があるとして、ようやく、「藁の上からの養子」が救済される道があり得ることを示すに至ったのだ。
しかし、「権利の濫用」というのは、法律学においては、「最後の最後の例外的救済手段」という位置づけであり、全ての「藁の上からの養子」が救済されるわけではないのだ。
私が現在担当している案件は、まさに、理不尽にも「親子関係がない」として訴えられている事案である。
平成18年の最高裁判例に照らして、当方が勝訴すべき事案であると確信してはいるが、それでも、このようなトラブルに巻き込まれること自体、到底納得できないことである。
親が死亡した後の兄弟姉妹間での紛争の場合、もはや、親との間で養子縁組を結ぶことすら不可能になっているわけで、親を選べない子としては、為す術が皆無なのである。
私も法律家の端くれであるから、最高裁の法的解釈が「理屈上は正しい」ことは十分理解できるが、それにしても、何ら非難されるべき要素の無い「藁の上からの養子」たちを抜本的に救済できる手段がないものだろうか。
そもそも、親子関係は、純粋に法律的な問題のはずである。赤の他人を養子として迎え入れるだけで、実子と対等な親子関係が築かれるのだから、実の子として届け出られた子が保護されないというのは、あまりにも杓子定規な法解釈である。
法律は、あくまでも社会正義実現のための道具である。形式的解釈によって不合理な結論が導出されるなら、立法によって解決すべきなのである。
政治家の「先生方」は、さぞかし政局で忙しいのだろうが、何らかの立法による救済措置を早急に検討してもらいたいと心底思う。