8)プロフェッションとしての弁護士
- 2009年6月12日
- 弁護士・資格
文部科学省によれば、2009年度の法科大学院入試(全74校)の総志願者数は昨年度より25%も減少し、過去最低の2万9714人だったそうだ。
法科大学院が一斉に開学した2004年度(7万2800人)の半数以下とのことだが、法科大学院の乱立による新司法試験の合格率低下ということが最大の原因であろう。
当初は、法科大学院修了生の7~8割程度が合格すると想定されていた新司法試験だったが、昨年(2008年)の合格率はわずか3割であり、今の仕事を辞めて(あるいは就職せずに)まで法科大学院に入学するということが、あまりにリスクの大きな選択になってしまったということなのだろう。
とは言え、弁護士人口は急激に増え続けており、この流れが今後も続くことは間違いない。当事務所の弁護士が所属する三重弁護士会も昨年20名の入会者を迎えた。20名というと大した数ではないように思うであろうが、一昨年までは100名に満たない小さな弁護士会だっただけに、一気に2割の増員ということになれば、これはもう「大事件」なのだ。
今のところ、地方では都会のような実感は無いものの、いずれは、地方の法曹界も大変な「競争社会」を迎えることになろう。
近時の弁護士大増員は、マスコミでも大いに注目され、法律事務所に就職できない司法修習生や貧困にあえぐ若手弁護士などとして、センセーショナルな書かれ方もしている。
市場が十分に拡大されないままに有資格者だけが増加するのだから、1人当たりの所得が減少するのは当たり前だ。だが、資本主義である以上、全員の所得が同じ比率で減少することはあり得ない。必ず勝ち組と負け組が発生し、所得は二極化するに決まっている。
よく言われるように、「食えない弁護士」が大量発生するという事態も現実味を帯びてきた。そして、今後は、弁護士の在り方そのものが大きく変貌してしまうのかも知れない。
そもそも、弁護士とはどういう存在であるべきなのか。
弁護士は「プロフェッション」と呼ばれることがある。私自身、弁護士になった当初から常に意識し続けている言葉でもあるが、アマチュアと対比されるプロフェッショナル(いわゆるプロ)とはやや違う言葉だ。
プロフェッションを「専門職」と訳すこともあるが、ジェネラリストと対比されるスペシャリストともまた違う意味の言葉である。
プロフェッションとは、学者の定義によれば、「学識(科学または高度の知識)に裏づけられ、それ自身一定の基礎理論をもった特殊な技能を、特殊な教育または訓練によって習得し、それに基づいて、不特定多数の市民の中から任意に呈示された個々の依頼者の具体的要求に応じて、具体的奉仕活動をおこない、よって社会全体の利益のために尽くす職業」(石村善助著『現代のプロフェッション』至誠堂)ということになるそうだ。
実に難しい定義だが、ポイントは、専門職は専門職でも、「不特定多数の人」の中から「特定の依頼」を受ける職業だという点だ。
つまり、専門的技能が要求される職業人であっても、特定人だけから依頼を受け続ける者(会社の従業員)や特定の依頼者を持たない者(学者)、多数の人に対して技能を提供する者(芸能人・プロスポーツ選手)などはプロフェッションというカテゴリーからは外れることになる。
一方、医師や弁護士に限らず、相当数の「士業」がプロフェッションに含まれることにもなろう。
では、何故、プロフェッションは特別視されるのか。
プロフェッションは、もともとは「プロフェス」(Profess:「神に宣誓する」という意味)から派生した言葉であり、いささか宗教色を帯びているが、中性の西欧社会では、聖職者・医師・弁護士の3者をプロフェッションと呼んでいた。
聖職者は精神的病理現象の救済者、医師は肉体的病理現象の救済者、弁護士は社会的病理現象の救済者と位置づけられ、いずれも依頼者が抱える病理現象を対象として問題を解決する職業であり、粗野な言い方をすれば、「人の不幸が飯のタネ」ということだ。つまり、その気になれば、藁をもすがる依頼者を「食い物にする」ことが非常に容易い職業でもあるのだ。
だからこそ、高い「倫理性」が強く要求され、特別な職業として、「神に対して公益への奉仕を宣誓する」必要があった、というわけだ。
だが、そうは言っても、プロフェッションが高度な「倫理性」を保持し続けるためには、個人の「意思」だけに委ねたのでは心許ない。私見では、高度な倫理性を保持するためには、「独立性」と「自立性」が不可欠である。
独立性というのは、依頼者に「隷属しない」(上下関係がない)ということだ。依頼者の指示が不適切な場合に毅然とそれを是正したり拒否したりすることが出来なければ、倫理的に誤った決断をしてしまう。
また、自立性というのは、「経済的に」自活している(依存していない)ということだ。言ってみれば、現在抱えている案件の成否が生計に直結していない(生活がかかっていない)ということであり、そうでなければ、無理に無理を重ねる結果、倫理的に誤った決断をしかねないのだ。
つまり、弁護士がプロフェッションたり得るためには、経済的に安定した中でフリーランスを貫く必要があるのだ。何も、弁護士が高額所得者であり続ける必要はないが、少なくとも、受けるべきでない事件をスパッと断れるくらいには経済的に余裕が無ければダメだと言うことだ。
人間は弱いものである。いくら高尚な理念を持っていても、経済的に困窮すれば倫理観は間違いなく欠如するはずだ。
言うまでもなく、司法試験は学力試験であり、人間的な適性試験ではない。当たり前だが、全ての弁護士が聖人君子であるはずもない。
マズローの欲求5段階説を引用するまでもなく、低次の欲求(食いたい!)が充足されて初めて高次の欲求(人の役に立ちたい!)が生じるのであるから、弁護士が食えなくなる時代というのは社会全体にとっても決して有益ではないと言えよう。
近時の弁護士大増員の流れの中で、弁護士の「能力的な質の低下」ばかりが盛んに指摘されるが、私は、「倫理的な質の低下」の方がよほど深刻であり、大いに危惧すべきことであると思えてならない。
弁護士が、弁護士としての「良心」のみに従って、とことん正義を貫き通せるよう、プロフェッションとしての「独立性」と「自立性」だけは何としても死守していかねばならない。
そのためには、我々弁護士自身が、積極的に市場を開拓していく必要がある。つまり、国民の求めるリーガルサービスに的確に呼応できるよう、常に敏感にアンテナを張り続け、新しいことにどんどんチャレンジしながら研鑽を積んでいかねばならないということだ。
弁護士自身が危機意識を持って、昔ながらの殿様商売から真に脱却し得るのであれば、弁護士大増員もきっと「結果オーライ」となるに違いない。