14)「脳死=人の死」は妥当か
- 2009年8月19日
- 法律・政治
本年7月13日、「脳死=人の死」を前提に、15歳未満の者からの臓器提供に道を開く臓器移植法改正案が可決された。
いわゆるA案と呼ばれるもので、脳死を一律に人の死とし、年齢を問わず、本人の明確な拒否がない限り、家族の同意で臓器提供ができるようにするという内容である。改正法は、2010年7月に施行されるようだ。
15歳未満の者からの臓器提供を可能にすること自体は、数億円もの巨費を投じてアメリカで臓器移植術を受けねばならない現状を考えれば、反対する理由は全く無い。
だが、「脳死=人の死」と結論づけてしまったのは拙速に過ぎた感がある。
現行の臓器移植法では、死亡した者が臓器移植の意思を生前に書面で表示していて、かつ、遺族が拒まない場合に限り、「脳死した者の身体」を「死体」に含むと規定している。
つまり、あくまでも「心臓死=人の死」を大原則として、本人の明確な臓器提供意思表示がある場合のみ、特例として、医師や遺族等の犯罪(殺人罪等)が成立しないこととしたものなのだ。
ちなみに、臓器提供の意思表示は、15歳以上の者でなければ有効になし得ないとされるが、これは法で明確に規定されたものではない。
本来、意思表示の法的有効性というのは、司法判断に属するものなので、個別事例ごとの判断であるはずだが、厚生労働省のガイドラインで、「民法上の遺言可能年齢(15歳)を参考にする」とされたことから、15歳という年齢が一律の絶対的基準として独り歩きしてしまったものだ。つまり、裁判所が行政庁のガイドラインに拘束されるはずはないので、現行法の枠内でも、15歳未満の者からの臓器提供は不可能ではないということだ。
さて、今回の改正法では、「脳死=人の死」が原則とされた。
法案提出者の説明では、「臓器移植の場合のみ脳死が人の死となる」とのことだが、そのような明文規定が無い以上、立法者の意思とは無関係に法解釈が暴走する可能性は否定できない。そもそも、立法者の意思には何の法的拘束力も無いのだから。
マスコミでは、「脳死=人の死」ということが、日本人の死生観に合致するか、また、脳死患者の家族への風当たりが強くなるのではないか、といった問題点が強く指摘されているが、法律家としては、各種法分野に与える影響も気になるところである。
以下、各種法分野で問題となりそうな点をいくつかピックアップしてみる。
なお、内容的には完全な私見ゆえ、間違いが多々あり得ることを前提にお読み頂きたい。
まずは、刑事法分野。
脳死というのは、素人目には、いわゆる「植物状態」と見分けがつかない。
植物状態では生命維持に必要な「脳幹」部分は生きているのに対し、脳死では完全に「脳幹」が死んでしまっっている、というのが決定的な違いである。医学的には、植物状態の場合は稀に回復することがあるが、脳死は回復しないらしい。
だが、いずれの場合も、意識不明状態には違いないので、素人目には見分けがつかないのだ。
さて、「脳死=人の死」が原則となると、Aが植物状態のBを殺害した場合、殺人罪に問うことが難しくなる可能性がある。
刑事裁判においては、殺人罪の立証責任は全て検察官にある。Aに殺人罪が成立するためには、Aの行為が「生きているBを死に至らしめる」行為だということをA自身が認識していなければならない。これが殺人罪の「故意」である。
だが、Aが「Bは意識不明だったので、既に脳死状態かと完全に思い込んでいた」と弁明した場合、Aの殺人罪の故意を立証することが相当困難になってしまうのだ。
「心臓死=人の死」の原則が生きていれば、このような事態は当然発生しないのだが、裁判員を悩ますネタがまた一つ増えたとも言える。
次に、賠償法分野。
交通事故でCが脳死状態に至ったが、家族Dが臓器提供を拒絶し、その後も延命措置が講じられた場合、損害賠償額の算定に影響が出る可能性がある。
延命措置の選択は、Dのみの判断で可能となるのだが、加害者は、果たして、脳死後の延命措置にかかる医療費まで賠償すべきであろうか。
もちろん、臓器提供を拒否すること自体は適法なので、このこと自体が非難されるべきではないから、基本的には賠償すべきことになろう。
だが、Cが明確に臓器提供の意思表示をしていたにもかかわらず、Dの判断で拒絶した場合は、「損害の公平な分担」を理念とする損害賠償法の解釈としては、相当微妙な判断になってくる気がする。
さらに、保険法分野。
そもそも、「脳死=人の死」とするならば、脳死後の延命措置にかかる医療費は、「生きている人を対象とした治療行為」とは言えなくなる。そうすると、健保財政逼迫の現状からすれば、ややもすると、健康保険適用外とされてしまう可能性もあり得る。また、民間の医療保険だって、脳死後の延命措置にかかる医療費は「入院治療に該当しない」という約款をわざわざ作ってしまう可能性も出てくる。
最後に、家族法分野。
改正法は、簡単に言えば、脳死状態に陥った本人の意思を無視して、家族のみの判断によって、死亡時期を「脳死時」なのか「心臓停止時」なのか「選択」できるということだ。
そうすると、遺産を相続する者が相続時期を意図的に操作できることになってしまう。
例えば、危篤状態の資産家Eが妻に先立たれ、FとGの2人の子のみがいたとする。そんな中、Gが交通事故に遭い、脳死状態になった場合、Gとの離婚を検討して別居中の妻Hとしては、Gを延命させたいと願うことになる。当然、愛情云々からではなく、Eの遺産目当てである。Eが死亡した際にGがまだ生きていれば、GがEの遺産の2分の1を相続し、G死亡後にHがそのまま相続するというわけだ。勿論、Hとすれば、Gとの離婚は取りやめることになろう。
一方、Fとすれば、この結論は面白くない。Fの立場からは、Gの脳死を早急に認めてもらいたいと願うことになる。そうすれば、Eの遺産を独り占めできるからだ。
つまり、Gの死亡時期について、FとHの利害が真っ向から対立することになるわけで、Eの遺産の額によっては、大変なモラル・リスクが発生する可能性があるのだ。
Gが生前に臓器提供の意思表示を明確にしていた場合、Hが最終的に遺産を手に入れることについては結論の妥当性という点でも大いに問題が生じるし、そもそも、Hが「家族」と呼ぶに相応しい存在かどうかも疑問である。
以上、ざっと思い付くだけでも、改正法は、あらゆる法分野に影響する可能性があるのだ。15歳未満の者からの臓器提供に道を開くことだけが目的だったはずなのに…。勿論、不都合が生じれば、その都度、立法で解決すれば足りる話なのだが、立法府が適切な立法責任を果たし得ていない現状に鑑みれば、単なる杞憂には終わらない気がする。
おそらく、あまり深い検討なしに拙速に成立させた法案なのであろうが、とするならば、人の死亡時期に関しては、従来どおり、「心臓死=人の死」という大原則を貫いてもよかったはずだ。