23)事業仕分けで「目覚める」か
- 2009年11月20日
- 法律・政治
政府の行政刷新会議による「事業仕分け」の前半戦が終了した。今月24日からは後半戦がスタートとなる。
何か新しいことを始めるときには、常に批判はつきまとうが、私個人としては、徹底的にドンドンやって欲しいという思いである。
本来であれば、予算委員会等で、このような実質的な議論が毎年飛び交うべきだったのだが、これまでの政府は官僚との主従関係が逆転し、完全に官僚の術中にはまっていたわけだ。
先日、テレビ番組のコメンテーター(どこかの大学教授だったような…)が、「事業仕分けは、『目覚まし時計』みたいなもの。多少荒っぽい議論でも、目を覚まさせることにこそ意義がある。」という趣旨の発言をしていた。
全くそのとおりだと思うし、うまい表現だなあと感心した次第だ。
民主党の枝野議員も、「官僚の皆さんに、一種のカルチャーショックを与えているのかもしれないが、私はそのこと自体が、事業仕分けをしていることの意義だと思う。」と述べている。これも全く同感である。
官僚社会では、コスト意識もスピード感覚も要求されない。1時間という極めて限定された時間の中で、事業の必要性とコストパフォーマンスを巧みにプレゼンするという技能は、官僚社会では培われてこなかった技能のはずであり、さすがに優秀な官僚たちもアタフタしている様子である。
ただ、官僚は優秀であるだけに、環境適応能力も抜群である。願わくは、「事業仕分けを無難に切り抜ける為のマル秘マニュアル!」みたいな物を作り上げることに精力を注がないで、何とか、真に国益追求に目覚めてもらいたいものだ。
まあ、そのためには、現在の「縦割り行政」を解消することが必要不可欠であるが…。
ところで、官僚が目覚めることに期待する前に、私は、本当に目覚めなければならないのは「国民」であると思う。
官僚にとってみれば、自分たちの都合のいいように国を動かすためには、政治家が専門領域について「無知」で、国民が政治そのものに「無関心」であることが最高の条件である。
逆の言い方をすれば、国民が税金の使われ方に関心を注ぐだけで国益追求が実現し易くなるということだ。
そもそも、国民が税金の使われ方に無関心なのは、「納税意識」がないからだ。
そして、何故、納税意識がないかと言えば、「確定申告」をしないからに他ならない。
日本の労働人口のうち、自営業者は15%程度らしいので、大多数の国民は確定申告を全く経験していない。
おそらく、日本の税制の仕組み自体も理解していない人が多いはずだ。
サラリーパーソン(給与所得者)にとっては、税金を源泉徴収された後の「手取金額」が自分の収入の全てだから、最初から、その範囲内で家計の遣り繰りをするだけのことである。従って、税金としてどれくらい徴収されているかすら関心がないのだ。
だが、確定申告をして、一旦、懐に入ったお金がゴッソリ出ていくということを経験すると(これは想像以上にツライ!)、途端に「納税意識」が生まれるのだ。
私自身も、弁護士になって初めて確定申告を経験したのだが、日本の税制や税金の使われ方のムダには、常に憤りを感じている一人だ。
そもそも、日本の源泉徴収制度は、戦時中に、戦費調達のために国民から広く「確実に」税金を徴収すべく作られた「一時的」な制度のはずだった。
ところが、戦争が終わっても、税を徴収する側からすれば非常に便利なので、そのまま制度として生き続けてしまい、国民から「納税意識」を奪うという副産物(ひょっとするとこれが真の目的か?)までも生み出し、官僚にとっては、この上ない好都合な制度として定着してきた、というわけだ。
ちなみに、源泉徴収制度が存在する国は結構あるが、確定申告は必要とされているのが一般的である。日本のように、年末調整までも事業主が行って、結果的に、確定申告をする必要が全くないような国は極めて珍しいのだ。
今回の事業仕分けで、予算要求が如何に杜撰なものかを国民は知ることとなった。せっかくの機会なので、今こそ、国民自らが、「納税意識」に目覚めるべきである。
まずは、給与明細にじっくり目を通すことから始めてみては如何だろうか。
毎月、知らぬ間に徴収されていた金額の大きさに改めて驚くことであろう。
そして、湯水の如く血税がジャブジャブ浪費されている実態を知れば知るほど、国レベルでの血税のあまりの「軽さ」と、その血税を稼ぎ出すために投じた自らの努力の「重さ」との「ギャップ」に憤りを感じるに違いない。
国民全員が健全な「納税意識」を持って初めて、本当の意味での「民主主義」がスタートする。