244)権力の源泉
- 2017年6月10日
- 法律・政治
昭和以降の総理大臣では、佐藤栄作・吉田茂に次いで、
首相在任期間3位を「爆走中」の安倍首相。
今年3月には、自民党の総裁任期が、
「連続2期6年まで」から「連続3期9年まで」に延長され、
今後も、ドンドン記録更新されていく可能性が高い。
そして、2年後の2019年8月24日を迎えれば、
佐藤栄作の在任期間2798日を抜いて、
歴代1位に躍り出る可能性すら、現実味を帯びてきた。
唯一の失脚ネタと言えば、
安倍夫妻が主演の「学園もの」シリーズか。
でも、「森友」にしろ「加計」にしろ、
結局は、流行語にもなった「忖度」政治の典型。
忖度されている側の安倍首相は、
「官僚が先回りして勝手に突っ走ったこと」
と言い張っていれば、おそらくは、逃げ切れてしまう。
本当に、今の安倍政権は、恐ろしい。
あの、先例主義で融通の利かない「官僚」たちが、
先例を無視して、率先して「忖度」するのだから。
この安倍政権の異常なまでの「権力の源泉」は何か。
ズバリ言えば、「人事」である。
2014年5月、「内閣人事局」が設置された。
これにより、各省庁の事務次官以下600名の人事権を、
首相官邸が牛耳ることとなった。
かつて、官僚の頭の中には「省益」しかなかった。
それはそれで、批判されるべき要素が多かったろうが、
それでも、今回の加計問題の例で言うならば、
内閣府の「理不尽なゴリ押し」に対しては、
文部科学省は、何が何でも屈しなかったはずである。
結局、首相官邸の「ご機嫌」を損ねてしまえば、
アッという間に「クビ」が飛び、将来が無くなると思えば、
力に屈服するしかない、ということだ。
従来、日本の政治家は、どうやっても官僚に勝てなかった。
それが今や、官僚を力で捻じ伏せてしまう安倍政権。
そして、最も恐ろしいことは、
国家権力を縛るはずの憲法ですら、完全に無視していることだ。
中国や北朝鮮の「脅威」があると言って、
戦争ができる普通の国にしようという「安保法制」。
これは、明らかに憲法9条の死文化だ。
テロの「脅威」があると言って、
国民を監視できる国にしようという「共謀罪」。
これは、明らかに憲法21条の死文化だ。
憲法21条は、表現の自由と通信の秘密を保障する。
この「通信の秘密」というのは、
通信の「内容」だけでなく、通信の「存在」自体も秘密ということ。
ところが、共謀罪(テロ等準備罪)を摘発しようと思えば、
共謀という犯罪行為が出現する適法段階で、通信を傍受する必要がある。
ということは、国民全員が国家権力の監視下に置かれかねないのだ。
安倍政権の政策実現の常套手段は、
やたらと「脅威」を訴えて、防衛のために「必要」だという論法。
しかし、国家の政策というのは、
その政策を実施する「必要性」だけでなく、
その国家の法体系上の「許容性」をも充足せねばならない。
その「許容性」を審査する拠り所が「憲法」なのである。
ヒットラーの例を出すまでもなく、
民主主義というのは、独裁政権の暴走を許容する可能性がある。
その暴走を食い止める「最後の砦」が憲法であり、
憲法こそが、少数派の人権を保障する唯一のカードなのである。
もちろん、日弁連は、共謀罪創設に猛反対している。
私も、一人の弁護士として、一人の国民として、断固反対である。
共謀罪(テロ等準備罪)について言えば、
国際組織犯罪防止条約締結のために「必要」と政府は強調するが、
国連の「立法ガイド」を執筆した刑事司法学者のニコス・パッサス氏は、
「条約はテロ防止を目的としたものではない」と明言している。
つまり、「金銭的な利益を目的とした国際組織犯罪」が対象で、
「テロは対象から除外されている」のだ。
そうなのだ。
結局、安倍政権の政策には「理屈が全く無い」のだ。
そして、理屈が無くても、「力づく」でゴリ押ししてしまう恐ろしさ。
今回の「前川の乱」は、象徴的に言えば、
力で捻じ伏せられてきた官僚としてのプライドの爆発なのだろう。
この爆発が、どうにかして、現役官僚の中にも連鎖して、
政治家と官僚とのパワーバランスが、うまく均衡して欲しいもの。
それにしても、人事というのは、恐ろしい。
私は、池井戸潤の小説が好きで、ほぼ全て読んでいるが、
彼の小説の一貫したテーマは、「人事」だ。
人事に関する男の「妬み」「嫉み」は、半端じゃないからねえ。
ま、安倍政権が終焉となった後の、官僚の反乱が見ものだね。