4)30年前の殺人事件
- 2009年5月1日
- 法律・政治
先日、注目すべき最高裁判決が出た。約30年前(昭和53年)に教諭を殺害し、遺体を自宅に26年間隠し続けた上で、殺人罪の公訴時効成立後に自首したという男に対する遺族からの損害賠償請求訴訟だ。最高裁は、男側の上告を棄却し、男に約4200万円の賠償を命じた控訴審判決が確定した。
法律上の争点は、殺害行為から27年が経過した時点での提訴に対し、民法の除斥期間が適用されるか否かという点であった。
除斥期間というのは、不法行為から20年が経過すれば、問答無用で損害賠償請求権が消滅するという制度だ。時効と違い、途中で中断したりしない、というのが教科書的説明だ。
最高裁は、「死亡を知り得ない状況をことさら作り出した加害者が賠償義務を免れるのは、著しく正義、公平の理念に反する。」との理由で本件に除斥期間を適用しなかったというわけだ。
この結論が妥当であることに異論はないだろう。そもそも、時効や除斥期間という制度自体に疑問を持つ国民も多いはずだ。
だが、法解釈論としては、そう解釈しないと「著しく正義に反する」というのが最大の理由付けであり、これでは、「原告を勝たせたいから原告の勝訴!」と言っているだけのことで、理論的側面で異議を述べる法律家も多いことだろう。
近時の最高裁は、「結果の妥当性を法理論的整合性よりも優先する」という姿勢が顕著であり、学生時代の私であれば、おそらくこの傾向に疑問を感じたはずだ。だが、十数年の実務経験を経た現在の私としては、法理論的整合性に過度にとらわれない結論重視の最高裁の姿勢は大いに賛同するところであり、司法のあるべき姿だと確信している。
法律というものが、「社会のあるべき姿」を実現するための「道具」であり、その道具を最大限に有効活用する方法を「模索」するのが「法解釈(=司法)」である以上、最高裁の姿勢は大いに歓迎されるべきだ、というのが現在の私の意見だ。
ただ、仮に私が本件の相談を受けた場合、原告側でも被告側でも、おそらく、私自身は代理人になることを躊躇したに違いない。
私は、常々、法律家というものは「情」(権利の正当性)と「理」(法理論的許容性)のバランス感覚が最も重要だと思っている。
本件事例で、私自身が相談を受けた場合には、原告側の提訴は、情には適っているが、理に適わず、被告側の応訴は、理には適っているが、情に適わず、と判断してしまったに違いない。いくら、相談者の言っていることが「もっともだ。かわいそうだ。」と思えても、現在の日本の法体系でその思いを実現する手段がなければ、法律家としては、軽々しい支援はできない。安請け合いして、予想通りの敗訴となれば、弁護士だけが得をするという詐欺みたいな話になってしまう。
結果的には、最高裁は、情を実現するために、理を若干曲げてくれたわけであるが、原告側代理人もどこまで勝訴を確信していたであろうか。このような問題提起型の提訴を敢行する積極的な姿勢は見習いたいものである。
それにしても、被告側の代理人は心情的には辛かったはずだ。おそらく、訴訟の途中では裁判所から和解勧告もされたであろうが、代理人活動の中心的部分が依頼者の説得作業というのは、本当に辛いものだ。私にはちょっと真似できないところだ。