38)時効とは何か
- 2010年5月13日
- 法律・政治
GW前の先月27日、殺人事件などの「公訴時効撤廃」を盛り込んだ刑事訴訟法の改正法が衆議院で可決され、即日施行された。
結局、法案に反対したのは共産党だけで、ほとんど議論らしき議論も聞こえてこないまま、あまりにもアッサリと成立してしまった感がある。
法律として成立した以上、しばらくは如何ともし難いところだが、私個人の主張を述べれば、後述のとおり、基本的には時効撤廃には反対だ。
殺人事件の公訴時効を「何年」とするかは、国民的議論の末に政治的に決めればよいことだと思うが、公訴時効を完全に「廃止」してしまうことには相当な抵抗感がある。
それにしても、つい最近(2005年)、殺人事件の公訴時効が15年から25年に延長されたばかりなのに、その検証すら全くされないまま、一気に時効廃止というのは、参議院選挙に向けたパフォーマンスでしかないのか。
と言うのも、「時効廃止」は国民の大多数が支持するところだからだ。
ざ~っと、ネットを閲覧してみても、「時効が何故存在するのかさえ、サッパリ分からない。犯罪者の逃げ得を許すなんて、絶対に納得できない。遺族の悲しみ・憎しみには、時効などあり得ない。」という意見が大多数のようだ。
ただ、これらの意見は、様々な論点を踏まえた上で出された意見とは到底思えないので、やはり、法律家としては一度は論じておきたいと思う。
そもそも、「時効」という制度は何故存在するのか。
民事の時効であれば、比較的分かり易く、異論も少ない。
よく言われるのは、次の3点である。
(1)永続した事実状態の尊重。
(2)立証の困難の救済。
(3)権利の上に眠る者は保護しない。
例えば、民法では、土地を20年間不法占拠すると土地の所有権を時効取得するし、知人にお金を貸しても最後の返済から10年経過すると貸金請求権は時効消滅する。
民事の時効が存在するのは、(1)無権利者でも、何年も土地を占拠し続けていれば、それを前提に様々な法律関係が形成されていくし、(2)たとえ債務者がちゃんと支払っても、その後何年も経過すれば、領収証などの証拠を紛失してしまいやすいので、一定の事実状態が継続すれば当事者を保護する必要性が高まるという理由からだ。
一方で、(3)明渡請求や貸金請求が可能なのに、何年も請求しなかった当事者を保護する必要性はないから、時効を認める不都合も小さいということになる。
民事の場合、権利者とは言っても、何年もボーッとしていたという「落ち度」があるので、まあ、あまり同情する声も無かろう。
ところが、刑事の時効になると話はガラッと変わってしまう。
時効によって笑うのは「凶悪な犯人」であり、時効によって泣くのは「何ら落ち度のない被害者遺族」という極端な構図が描かれるので、価値判断として、「時効を認める根拠などどこにもない。被害者遺族には時効など存在しない。」という主張に傾きやすいのだ。
一般的に、公訴時効の存在理由は、次のように説明される。
(1)時の経過とともに証拠物が散逸・処分されることで事実認定が困難になり、適正な審理ができなくなることを防止するため。
(2)時の経過とともに、社会の復讐感情が減少し、また、刑罰により一般人に対して犯罪を思い止まらせる必要性や犯人に対する再教育の必要性が減少することで国家の刑罰権が消滅する(可罰性が低下する)ため。
(3)一定期間に犯人が訴追されないという事実状態を尊重し、国家の訴追権行使を制限して個人を保護するため。
おそらく、大多数の国民が、上記の説明だけでは納得しないだろうし、次のように批判するはずだ。
(1)科学技術の進歩により確実な証拠が存在する場合が生じている。
(2)被害者遺族の感情は決して減少しない。
(3)犯人を保護する必要など全くない。
だが、いずれの批判もチョット「的外れ」なのである。
なぜなら、「公訴」の意味を十分に理解した上での批判ではないからだ。
そもそも、「公訴」とは何か。
公訴の対立概念が「私訴」だと言えば、ピンとくるだろうか。
つまり、公訴というのは、「国家権力の意思による起訴」ということだ。
反対に、私訴は、文字通り、「(国家権力ではない)私人の意思による起訴」ということになる。
我が国の法制度には「私訴」はない。
全ての起訴権限は検察官が独占しており(起訴独占主義)、起訴するかどうかさえも検察官の判断次第である(起訴便宜主義)。
ところで、イギリスでは、あらゆる犯罪に時効がない。先進国では唯一だ。
だが、イギリスは、現在でも「私訴」制度を主として採用しており、検察官というポストすら最近(1986年)まで存在しなかったという稀有な国だ。
思うに、イギリスは私訴制度を採用しているからこそ時効がない、とも言えるのであり、このことは、公訴時効の是非を考える際のヒントになる。
我が国が「公訴しか」採用していない国である以上、刑事訴訟の当事者は「国家権力」(検察・警察)ということにならざるを得ない。
従って、近時では批判が多いところではあるが、被害者及び被害者遺族は、「刑事訴訟の当事者たり得ない」というのが法制度上の論理的帰結である。
立憲主義の根本的理念は、「国家権力の抑制」である。
日本は、市民革命を経験していないので、「国家権力の暴走」「国家権力による人権侵害」を真剣に懸念する国民が少ないが、憲法や刑法などの公法を議論する際には、決して忘れてはならない最も重要な理念である。
憲法は、全ての国家権力を抑制するための最高法規である。
憲法99条には、「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う。」と規定されている。この条文の中に「国民」という文字は一切登場しない。
残念ながら、このことの重要性を十分に理解している国民も少ない。
憲法は、国民が「公務員に守らせる」ために作った最高法規であって、国民自身は憲法を守る義務者ではないということなのだ。
同様に、刑法も刑事訴訟法も、国家権力を制限するための法規である。
刑法は、ある犯罪行為をしたものは「懲役○○年『以下』に処する」などと規定し、裁判所の判断に一定の「歯止め」をかけている。
また、刑事訴訟法は、捜査機関や訴追機関に厳しい手続的規制を加え、せっかく真犯人を捕まえても、「手続的な違法」があれば、真犯人を処罰できないという仕組みになっている。
公訴時効制度も、まさに「国家権力の抑制」という理念から派生している制度の1つなのであり、まずは、この点をシッカリ押さえる必要がある。
そして、国家権力が暴走して最も深刻な人権侵害を被るのは、「犯人でないのに犯人だとして訴追されてしまった者」である。
そう、公訴時効の存在する最大の理由は、「冤罪防止」である。
刑事訴訟の理念が「たとえ10人の真犯人を取り逃がしても、たった1人でも冤罪被害者を出してはいけない」ということならば、公訴時効を無くしてしまうことに対しては、もっともっと慎重な議論がなされるべきであった。
特に、足利事件という大冤罪事件が話題になったばかりなのだから…。
大多数の国民は、「犯人」と「被害者」を天秤にかけて論じているので、画一的な結論しか提示し得ないのであろう。
だが、「公訴」ということを考えれば、天秤にかけるべきは、「冤罪被害者」と「国家権力」ということになる。
もっと言えば、冤罪被害者の人権保障(自由)と国家権力による犯人訴追(正義)という2つの要請を如何に調和させるべきか、という観点から生み出された制度が公訴時効なのだ。
前述した民事の時効は、「事実」と「権利」を天秤にかけて、何年間、事実が継続していれば、「事実」>「権利」となるか、という価値判断である。
同様に、刑事の時効は、「自由」と「正義」を天秤にかけて、何年間、捜査を継続していれば、「自由」>「正義」となるか、という価値判断である。
ここで言う正義というのは、あくまでも「国家としての正義」である。
残念ながら、法が要求しているのは、被害者遺族にとっての正義ではない。
そして、忘れてならないのが、時効廃止によって、延々と続くであろう捜査費用は、全てその時々の「納税者の負担」になるということだ。
現在、殺人罪の検挙率は95%前後である。
もっとも、検挙率なるものは、その年の検挙件数をその年の認知件数で割ったものゆえ、当たり前だが、分母と分子の事件が全く異なるのだから、意味のある統計なのかどうかは疑問だが…。
まあ、いずれにせよ年間5%程度の犯人を取り逃がすと仮定すると、20年もすれば、捜査すべき殺人罪の件数は2倍に膨れ上がるということだ。
この計算だと、50年後には3.5倍にまで係属事件数が膨張する。
当然ながら、警察は大幅な予算拡大を要求するであろうが、50年後の国民にそのような負担を押しつけること自体、果たして、民主主義の理念に沿っているのかどうか…。
時効廃止ということになれば、理屈上は、犯人が完全に死亡したと確定できるまで捜査を継続する必要があろう。「普通なら死んでいるはずだ」では捜査を打ち切れないはず。
犯人の犯行時の推定年齢が20歳未満であれば、ざっと100年間は捜査を継続する必要が生じる。実に非現実的な話だ。
100年後の日本において、「100年前の事件の犯人を訴追すること」が、果たして「国家としての正義だ」と言えるのだろうか。
捜査側にしても、時効が無ければ、最初の数年間だけ本気で捜査して、その後はマジメに捜査しないという事態も十分想定し得る。
時効が迫ってくるからこそ、捜査官の士気も上がるのだ。
ビジネスの世界でも、「締め切りの無い仕事」というのは永久に完成しない。
結局、時効を廃止することで、検挙率さえ下落することにもなりかねない。少なくとも、「時効目前!」という緊迫した場面が永遠に訪れないのだから…。
時効が完成することは、捜査側にとっては無念である反面、捜査から解放されるというメリットがあることも忘れてはならない。
重大な犯罪について、刑事の時効を廃止している国もいくつか存在するが、いずれも、大量殺人や民族謀殺(ナチスなど)など、殺人罪の中でも特に凶悪な犯罪に限って時効を廃止しているのであり、今回の改正のように、殺人罪であれば「一律時効なし」という制度は、先進国ではイギリスだけである。
そして、イギリスは、後述のとおり、極めて特殊な法制度を採用しているので、イギリスを見習うならば、全ての刑事法制度を抜本的に改正せねばならない。
くどいようだが、公訴時効が存在する最大の理由は「冤罪防止」である。
そして、強調すべきなのは、日本は、冤罪が極めて発生しやすい国であるという悲しい現実だ。
何故、冤罪が発生しやすいかと言えば、(1)取調に弁護人が一切立ち会えないからであり、加えて、(2)自白を重視せねばならない法体系だからだ。
まずは、(1)の点。
弁護人の取調立会権については、多言を要しない。
ある日突然、警察に逮捕されて、「50年前の○月○日午後○時頃、どこで何をしていましたか。」などと詰問されて、まともに答えられる者はいない。
警察の取調は、長時間かつ理詰めというのが特徴だ。被疑者は、国家権力を相手に、たった一人で応戦せねばならない。
50年も経っていれば、思考能力も格段に衰える。若い優秀な警察官に理詰めで反論することは難しい。余命もわずかだから、「もうどうにでもなれ」という気持ちになることもある。
あの足利事件も、弁護人の取調立会権が存在すれば、おそらくは防ぎ得た悲劇である。
足利事件は、無実の人がいとも簡単に「自白」してしまうことを見事に証明してくれたのであり、この教訓は今後に活かさねばならない。
先進国で弁護人の取調立会権が存在しないのは日本だけである。
従って、諸外国の時効制度の例は、全く参考に出来ないのだ。
次に、(2)の点。
日本には、人を死に至らしめた罪がいくつか規定されているが、「故意」という主観的要素で犯罪が明確に区別されている。
例えば、「人を殺すことを容認」していれば殺人罪、「人を殺すことは容認していなかったが、傷付けることは容認」していたのならば傷害致死罪、「傷付けることすら容認していなかった」のならば過失致死罪となる。
法定刑も格段に開きがある。殺人罪は「死刑、無期懲役、5年以上の懲役」であるが、傷害致死罪となれば「3年以上20年以下の懲役」となり、過失致死罪に至れば「50万円以下の罰金」となる。
つまり、例えば、現場に血の付いた包丁が落ちていて、包丁から被疑者の指紋もしくはDNAが検出されたということがあっても、そのことだけでは、どの罪名で起訴するかすら決まらないということだ。
結局、被疑者を長時間取り調べ、被疑者から「自白」や何らかの供述を得ない限り「起訴すらできない」という現実があるので、捜査機関は、何が何でも「自白」を得ることに没頭してしまうという訳だ。
一方、イギリスなどでは、日本の殺人罪・傷害致死罪のような区別はなく、何らかの故意を以て人を死に至らしめたら殺人罪(マーダー)である。
しかも、法定刑は、一律、「無期拘禁刑」である。
このシンプルな法体系ゆえ、取調も非常に簡単で、全ての犯罪は逮捕後96時間(4日間)以内に起訴せねばならず、通常は、殺人罪でも24時間以内に起訴してしまう(!)のだという。
要するに、イギリスでは、「犯人性」さえ明らかならば、客観的事実だけで起訴できるように法体系が構築されているということだ。
結果、驚くべきことだが、被疑者の「黙秘権」すら存在しない。捜査官から発言を強要される心配すらないから黙っている権利も存在しないという理屈だ。被疑者が何も語らなくても起訴できる以上、当然の帰結なのだ。
その代わり、心神喪失・心神耗弱・心中の約束・被害者の挑発といった被告人に有利な情状は「抗弁」と位置づけられ、弁護側が「法廷で主張」すべきこととされる。
審理の結果、弁護側が提出した抗弁が認められると「マーダー」ではなく「マンスローター」という別の罪名に変わり、刑罰は「何でもあり」となるようだ。
要するに、イギリスの刑事訴訟は民事訴訟に近い形態と言える。私訴を原則としている以上、これも当然のことなのかも知れない。
ところが、日本の場合、「起訴段階」で罪名を完全に特定する必要があり、罪名を特定するためには、どの段階でどういった故意が存在したかを逐一検証する必要があるので、被疑者の供述が必要不可欠となり、結果的に、長時間の取調が不可避な構造になってしまっているのだ。
以上、面白くもない話を長々と書いてしまったが、法律家としては一言述べておきたいことだったので、ご容赦頂きたい。あくまでも「公訴」である以上、時効はやはり必要だ、というのが私の結論だ。
時効を廃止するならば、我が国にも「私訴」制度を導入するとか、冤罪が発生しないように、「弁護人の取調立会権」を確保するとか、あるいは、刑法の体系を抜本的に改正してしまうとか、刑事法全体に手を付ける必要がある。
そのようなことが全く議論すらされないまま、公訴時効をアッサリ廃止してしまった我が国の政治家たちの「法的バランス感覚の欠如」は極めて深刻だ。
与党にも野党にも多数の弁護士有資格者がいるというのに…。
いずれにせよ、立法によって時効が廃止されてしまったことは現実だ。
一度廃止した時効を復活させるのも大変だろうから、時効はずっと廃止されたまま、長期間が経過していくことになろう。
結果、数十年後には、時効廃止の弊害が現れてくるかも知れない。
そして、確実に言えるのは、後の世代に多大な負担を押しつけてしまったという重い現実である。
国民的議論の末に、悩みに悩んで出された苦渋の決断なら文句はないが、どう考えても拙速な立法経緯であり、残念だとしか言いようがない。