26)プロたる者
- 2009年12月26日
- 弁護士・資格
どうも最近、涙もろくなってきた。
昨晩、なかなか眠れず、TBS系で毎年放映されている「クリスマスの約束」という小田和正をメインとした音楽番組を何気なく見ていたのだが、その中で、総勢21組34名に及ぶアーティストが22分間歌い続ける大メドレーという企画があった。曲のタイトルもズバリ「22分50秒」というもので、言葉ではとても表現できないが、その素晴らしさに心底圧倒された。妻は先に寝てしまっていたので、一人で聞き入りながら、思わず感動して涙ぐんでしまった。
音楽の力は本当にすごいと思ったのと同時に、つくづく年をとったなあとも感じた…。
人間の涙というのは、世代特有の涙というものがあるそうだ。
幼少期は、依存の涙(助けを求める涙)、青年期は、自尊の涙(悔し涙)、熟年期は、感動の涙(共感の涙)、ということらしい。
最近、ドキュメンタリーを見ていてもよく涙ぐむので、子どもたちにもよくからかわれてしまうのだが、順調(?)に年をとっている証拠か。
娘の結婚式は、さぞかし大変なことになりそうだ…。
さて、音楽といえば、我が家では、3年ほど前から「のだめ」ブームである。
「のだめカンタービレ」というクラシック音楽を題材とした漫画のことだが、フジテレビ系でアニメ・ドラマがシリーズ放映されたことで人気に火が付いたので、ご存知の方も多いだろう。「のだめ」というのは、主人公の音大生「野田恵」のニックネームで、「カンタービレ」というのは、「歌うように」という意味の演奏記号(発想記号)なのだそうだ。
主人公の「のだめ」は、当初、幼稚園の先生になることを夢見る平凡な音大生だったのだが、天才ピアニストの資質を有していたため、その才能を周囲が放っておかず、次第に、プロの演奏家への道を歩み始める、というストーリー展開だ。
我が家では、子どもたちは2人とも幼少期からピアノを習っていて、今では相当なレベルに達しているし、妻も幼稚園の先生だったので、もともと音楽の素養は豊かであった。ついでに、私も、顔からは想像できないかも知れないが小学校時代は合唱団に所属していたので音楽には馴染みがあったし、今も、タンスの肥やしになりつつあるサックスを「来年こそは」本気でマスターしようという思いだけは強い…。
そして、近くに住む妻の両親も夫婦でオカリナを趣味としており、老人ホームなどで演奏会をするなど本格的な音楽活動をしているほどだ。
ということで、家族全員が音楽には相当親しんでいたので、「のだめ」はアッと言う間に我が家のブームになったというわけだ。
それにしても、とかく堅苦しいイメージのあるクラシック音楽を題材に、よくもここまで面白いストーリー展開やキャラクター設定を作り上げたなあと感心しきりなのだが、ただ単に面白いだけでなく、「プロの世界」の厳しさや奥深さも同時に伝えてくれるところがまた素晴らしいのだ。
芸術の目的は、人々を楽しませ、感動を与えることにあるのだろうが、それは、巧みな技術を前提にした「表現力」によってのみ生み出されるものである。
単に写実的なだけの絵画ならば、写真でたやすく代替されてしまうし、いくら機械的正確さで楽譜に忠実に弾きこなしても、それだけでは、「へえ、すごいね~。」というだけで終わってしまうのだろう。聴衆に真の感動を与えるレベルというのは、技術を超えた「表現力」こそが必要不可欠なのである。
我が家の子どもたち2人も、先日、それぞれのレベルのピアノ・コンクールに出場した。
もちろん、バカ親としては、我が子らの演奏がピカイチだったことは言うまでもないが、上の子のコンクールはレベルも相当高く、技術的な尺度では、ほとんど差がないように思えた。つまらないミスをする子はほとんどいなく、間違えないで正確に弾くということ自体は「当たり前」という感じだった。
だが、素人目(素人耳?)にも、確かに「表現力」には随分と個人差があったように思われたのだ。
ただ単に必死で正確に弾くことだけに集中してしまっている子と、体全体を使って、音の響き・強弱等を意識しながら、曲のイメージを見事に表現している子とでは、その差は素人でも分かるほどだった。
案の定、講評でも「作曲者と奏者をつなぐのは譜面だけです。譜面を通して作曲者の心をどう理解するか、どう表現するかが最も重要なことで、そこが審査のポイントでもあります。」という趣旨のコメントがなされていた。
子どものレベルのコンクールですら、そのような「表現力」が要求されているということのだ。つくづく、音楽の奥深さを思い知られた気がした。
ところで、以上のようなことを考えるうちに、このことは、法律実務家である弁護士の業務にも一脈相通じるところがあるように思えた。
つまり、音楽家が「音を通じて聴衆を楽しませる」ことが使命であるように、法律実務家は「法を通じて依頼者の紛争を解決する」ことが使命であると言えよう。
弁護士であるからには、正確な法的知識があるのは「当たり前」のことであるが、それだけでは到底、法律実務家としては役立たない。
実務家は、学者ではない。当たり前のことだが、このことを忘れてしまっている弁護士も少なくない。
実務家に要求されるのは、あくまでも「紛争の法的解決」という現実的な課題への取り組みである。どんなに高尚で非の打ち所のない法理論を唱えても、目の前の紛争解決に役立たない法理論であれば、ゴミ同然なのだ。
法理論は、紛争解決のための一つの手段(道具)に過ぎないのであって、音楽家に「表現力」が要求されるように、法律実務家には「解決力」が強く要求されているのである。
なんだか話がどんどん飛躍してしまったが、言いたいことは、音楽家も弁護士も「プロ」として要求されている本質的な使命は同じだということだ。
一言で表現すれば、「目の前にいる人をハッピーにする」ことに尽きる。
当事務所は、来年、弁護士6人体制となる。
今後ますます、自信を持って「解決力の北勢綜合!」と公言できるよう、日々精進していきたいものだ。