105)で、人生のチーズはどこに?
- 2012年11月1日
- 人生・趣味
前稿でも触れたとおり、先日、中小企業診断士「同期」の「独立祝賀会」に
出席して来た。
彼は、誰もが知る大企業に勤めていたのだが、その「安定」を捨てて、新た
な「挑戦」に一歩踏み出したというワケだ。
その「あくなき向上心」には、心からの拍手を送りたい。
そして、彼が「人生で求める何か」を確かに掴み取ることを祈っている。
で、人生で求めるべきものは何か?
あるいは、何かを求めること自体が間違いなのか?
この問いに対し、古くから様々な人生論が展開され、あらゆる宗教が独自の
「解答」を提示してきたのだが、まあ、結局は、その人ごとの「正解」がある
ように思えてならない。
10年以上前、「チーズはどこへ消えた?」というビジネス本が大ベストセ
ラーとなり、企業経営の指針として、また、人材教育における教材として盛ん
に利用され、一大ブームを巻き起こした。
そして、2匹目・3匹目のドジョウを狙って、その後も、多くの「類似本」
が刊行された。
私も、類似本を含め、いろいろと買って読んでみたが、代表的な本のタイト
ルとメイン・メッセージをザッと並べてみると、次のような感じ。
ちなみに、「チーズ」とか「バター」とかの定義自体に、各著者の言わんと
するメッセージが既に含まれているようだ。
「チーズ」=仕事・家族・財産・健康・精神的安定といった「私たちが人生で
求めるもの」の象徴
「バター」=財産・名誉・出世・権力といった「追い求めだしたらキリがない
もの」の象徴
1)「チーズはどこへ消えた?」
(スペンサー・ジョンソン著、扶桑社刊)
チーズは常に持って行かれ、消えてしまう。
チーズが消えることに備えよ。
常にチーズの匂いをかいでいれば、古くなったのに気づく。
古いチーズを早くあきらめれば、それだけ早く新しいチーズを楽しむことが
できる。
冒険を十分に味わい、新しいチーズの味を楽しもう。
2)「チーズは探すな!」
(ディーパック・マルホトラ著、ディスカヴァー・トゥエンティワン刊)
生きていくためには、ある程度の量のチーズが必要だが、チーズを手に入れ
れば入れるほど幸せになれるわけじゃない。
もし自分の意志で「もうチーズを追いかけるのはやめよう」と決めたら、そ
のネズミは自由になれる。
問題は、迷路の中にネズミがいることじゃなくて、ネズミの中に迷路がある
ことだ。
3)「バターはどこへ溶けた?」
(ディーン・リップルウッド著、道出版刊)
バターがあることもあれば、ないこともある。
バターが無くなることを気にして、いつも神経をとがらせていては本当の喜
びは味わえない。
バターはやがて無くなるからおいしいのである。
欲望にはきりがない、バターはいくらでも欲しくなる。
バターなどなくても、よく晴れた朝、なんとなく感じる幸せを喜べ。
まあ、どの内容も、それなりに「なるほど」というものだ。
2)と3)は、1)に対するアンチ・テーゼのようだが、1)は、そもそも
ビジネス本なのだから、人生全般に広く適用できないのは、当たり前と言えば
当たり前のような気がする。
ビジネスの世界では、社会貢献が企業の使命だとしても、「利益を出す」こ
とがその活動の「前提条件」なのだから、「絶対的価値基準」としての「チー
ズ」は確かに存在する。
よって、経営とは「変化への対応」であるということを分かり易く説いた点
で、1)は、経営者に対する「模範的解答」を提示したことになろう。
だが、人生においては、ビジネスの世界のごとき「絶対的価値基準」は存在
しない。
それこそ、何に「幸せ」を感じるかは人それぞれでしかない。
私個人としては、「何にでも幸せを感じられる心」こそが、人生で追い求め
るべき「チーズ」なんだろうと思う。
結局、チャンとした宗教が真に説いているところもそこなのではないか。
俗説かも知れないが、仏教でいう「仏(ほとけ)」は、「解ける(ほどけ
る)」に由来する。
つまり、あらゆる執着からの解放こそが「悟り」ということなのだ。
また、私の母校であるPL学園の「PL」というのは、「パーフェクトリバ
ティー(完全自由)」の略称である。
この「完全自由」という境地は、自我から解放されたところに存すると説か
れており、やはり「悟り」の境地と相通じるものを感じる。
まあ、世の中の人全てが「何にでも幸せを感じられる心」を持つようになれ
ば、そもそも、あらゆる紛争は無くなるんだろうけどね。
そうなれば、我々弁護士は、すぐさま「廃業」だ(笑)。