沈思雑考Blog

ソレイユ経営法律事務所の代表である弁護士・中小企業診断士
板垣謙太郎が日々いろいろと綴ってゆく雑記ブログです。

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103)倫理なるもの

山中教授のノーベル医学生理学賞の受賞で、久々に日本にも明るく力強い希
望の光が差したと思った矢先、何だか「???」と?マークが幾つも付く話題
が飛び込んできたねえ。

そう、山中教授の研究成果を世界で初めて臨床応用したと「大ウソ」をつい
た森口尚史氏の件である。
ウソの全体像は未だにハッキリしないが、それにしても、あまりに稚拙なウ
ソだよなあ…。

タイミングがタイミングなだけに、アッという間に大ウソがバレることは火
を見るよりも明らかであったろうに…。
本当に「何で??」と理解に苦しむ話だ。

想像するに、とんでもない「虚言癖」の持ち主で、その後のことを一切考え
ずに、ウソによって一時的にもてはやされる「快感」に突っ走ってしまったの
かも?
ウソが発覚した後の記者からの厳しい追及に対しても、時折、薄ら笑いを浮
かべるなど、注目されていること自体に何らかの「快感」(?)を覚えている
様子もないではないからね。

まあ、研究者としては、そこそこの人物であったのかも知れないが、これで
彼の研究者人生も「ジ・エンド」というワケだ。

さて、彼は、ハーバード大学やマサチューセッツ総合病院の「倫理委員会」
の承認を得て臨床応用に及んだなどと説明していたが、結局、それも真っ赤な
ウソであった。

私自身、10年ほど前から、三重大学大学院医学系研究科・医学部及び同大
学医学部附属病院の3つの「倫理委員会」に外部委員として所属し、月1~2
回程度のペースで医学研究の倫理審査に携わっている。
その経験からすると、森口氏の報道に初めて触れた際、「随分と思い切った
承認をしたもんだなあ」な~んて思っていたが、やっぱり、私の感覚は間違っ
ていなかったようだ。

では、その「倫理委員会」とは一体何なのだろうか?

普段、我々は、ほとんど意識することは無いが、治療行為というのは、客観
的には、患者の身体に対する「傷害行為」なのである。
本来であれば傷害罪を構成すべき「犯罪行為」が法的に正当化されるのは、
その治療行為自体に「医学的正当性」が認められ、かつ、患者の「同意」が存
在するからに他ならない。

治療行為の場合、患者にとっては、少なくとも「より健康に近づく」という
絶大な利益が存在するから、その正当性は認められやすい。
だが、医学研究というのは、治療行為の一歩手前の「実験段階」に過ぎず、
一般的には、本人に利益があるか否かすら判然としない性質のものである以
上、より一層厳しく「倫理性」が問われねばならないというワケ。

ということで、ヒトを対象とした医学研究においては、必ず「倫理委員会の
承認」を得なければならないことになっており、年々、厚生労働省の指導も厳
しくなっている現状にあるのだ。

ところで、倫理委員会における審査項目を列挙すれば、およそ次のとおり。

1)研究の医学的正当性
2)被験者リスクの最小性
3)被験者リスクに対する補償措置
4)インフォームド・コンセント(十分な説明と自発的同意)
5)個人情報の保護

倫理委員会のメンバーは、医学・看護学の専門家のほか、生命倫理や法律の
専門家、患者団体の代表者などであるが、当然、弁護士である私には、3)~
5)に関して、法的知見からの助言が強く求められているのだ。

今回、森口氏のニュースに触れ、図らずも、倫理委員会の社会的使命の重大
さを再認識し、自らの責任の重さを痛感した次第。

まあ、デタラメな発表をした森口氏の倫理観は「最低」だったワケだが…。

ただ、一口に「倫理」的判断といっても、具体的事例に直面すると、実に難
しいものだ。
そもそも、倫理なるもの自体が、人によってバラバラだし。

辞書によれば、倫理とは「人として守り行うべき道。善悪・正邪の判断にお
いて普遍的な規準となるもの。道徳。モラル。」とのこと。

私なりの解釈では、倫理というのは、ハーバード大学のマイケル・サンデル
教授が言う「美徳と共通善」に近い気がする。

同教授の著作「これからの『正義』の話をしよう」(早川書房)では、3つ
の「正義」に関する考え方が出てくるので、ちょっと紹介したい。

法に携わらない人も、一度は考えて頂きたいテーマなので、やや長くなる
が、同書44頁以下をそのまま引用する。

(以下、引用はじめ)

1884年の夏、4人のイギリス人の船乗りが、陸から1000マイル(約
1800km)あまりも離れた南大西洋の沖合を、小さな救命ボートで漂流し
ていた。乗っていたミニョネット号が、嵐の中で沈没し、4人は救命ボートで
脱出したのだった。

持っている食料は、カブの缶詰2個だけで、飲み水はなかった。トーマス・
ダドリー船長、エドウィン・スティーブンズ1等航海士、甲板員のエドムンド
・ブルック~~「みんな優れた人格の持ち主」だと新聞は書いている。

4人目の乗組員は雑用係のリチャード・パーカーで、17歳だった。パーカ
ーは孤児で、長期の航海は初めてだった。友人たちの忠告に逆らい、「若者ら
しい大志を抱いて」契約にサインしたのは、この旅が自分を1人前の男にして
くれると思っていたからだ。しかし残念ながら、そうはならなかった。

途方に暮れた4人は、船が通りかかり、自分たちを救出してくれることを念
じながら、救命ボートから水平線のかなたを見つめていた。
最初の3日間は、カブを分け合って食べた。4日目にウミガメを1匹捕まえ
た。その後の数日間は、ウミガメと残りのカブで飢えをしのいだ。
それからの8日間は、食べる物は何もなかった。

その頃には、雑用係のパーカーは救命ボートの隅で横になっていた。パーカ
ーはほかの者の忠告にもかかわらず海水を飲み、体調を崩していた。
死にかけているように見えた。

厳しい試練の日々が19日目を迎えたとき、船長はくじ引きで誰か死ぬべき
者を決めようと提案した。そうすれば、ほかの者は生きのびられるかもしれな
い。
だが、ブルックが反対し、くじ引きは行われなかった。

翌日になった。なおも船の姿は見えなかった。
ダドリー船長はブルックに目をそらしているように言い、スティーブンズに
パーカーが死ぬべきだと身振りで合図した。ダドリーは祈りを捧げ、パーカー
に最後の時が来たと告げると、折り畳みナイフで頸静脈を刺して殺した。

良心からパーカー殺害に加担することを拒否していたブルックも、おぞまし
い恵みの分け前にあずかった。3人の男たちは、4日間、雑用係の少年の肉と
血で命をつないだ。

そして、助けが来た。
ダドリーはこの救助について、信じがたいほど婉曲な表現で日記に記してい
る。「24日目だった。われわれが朝食をとっていると」ついに一艘の船が現
れた。3人の生存者は救助された。

イギリスに戻ると3人はただちに逮捕され起訴された。
ブルックは検察側証人になった。ダドリーとスティーブンズは裁判にかけら
れた。2人はパーカーを殺し、食べたと臆することなく証言した。自分たちは
やむにやまれずそうしたというのだ。

(以上、引用おわり)

法的な解釈はともかく、こういった究極の場面において、正義とは何か?を
ジャッジするのは非常に難しいことだ。

サンデル教授によれば、正義には、次の3つの考え方が存在する。

1)「最大多数の最大幸福」という考え方

この考え方によれば、1人の犠牲で3人の命が助かったのだから、ダドリ
ーとスティーブンズは「無罪」ということになる。
つまり、被害者が「同意していなくても正当化される」という考え方だ。

2)「選択する自由の尊重」という考え方

この考え方によれば、被害者の「同意」が重要であり、パーカーの同意な
き以上、ダドリーとスティーブンズは「有罪」ということになる。
つまり、被害者が「同意さえしていれば正当化される」という考え方だ。

3)「美徳と共通善」という考え方

この考え方によれば、如何なる理由であっても殺人という行為は正当化さ
れないはずであり、当然ながら、ダドリーとスティーブンズは「有罪」とい
うことになる。
つまり、被害者が「同意したとしても正当化されない」という考え方だ。

殺人罪については、日本の刑法は、2)と3)の中間的な「正義観」を示し
ている。
即ち、被害者が「死に対する同意をしていても殺人は正当化されない」とい
う極めて「倫理的」な立場を取りつつも、同意殺人罪(6月以上7年以下の懲
役・禁固)は殺人罪(死刑・無期懲役・5年以上の有期懲役)よりも「相当軽
い法定刑」にとどめており、被害者の「選択の自由」にも相当程度の配慮を示
しているのだ。

ちなみに、上記事案において、イギリス高等法院は、法律と道徳の観点から
被告人らを有罪として「死刑」を宣告した。
しかし、イギリス国内の世論は、無罪が妥当との意見が多数を占め、当時の
国家元首ヴィクトリア女王は「特赦」をし、被告人らを禁固6ヶ月に減刑した
のだ。

さて、皆さんは、どう考えるだろうか?
本当に難問中の難問だ…。

まあ、確かに言えることは、弁護士たる者、このような「倫理観」というも
のを、ずっとずっと大切にしていかねばならないということだ。
依頼者がどんなに強く望んでも、決して「やってはいけない」ことが確かに
存在するからね。